『ジョゼフ・コーネル 箱の中のユートピア』

ジョゼフ・コーネル ? 箱の中のユートピア

ジョゼフ・コーネル ? 箱の中のユートピア

 昨日、どこにもでかけず、寝たり起きたりを繰り返した挙げ句に、結局、今日もどこにもでかけず、読みかけの本を読み終えた。
 ジョゼフ・コーネルという、アッサンブラージュの芸術家の伝記。
 第二次大戦を経て、アートの中心がパリからニューヨークへと移ろう時代、シュールレアリズム、抽象表現主義ポップアートと、だんだんと流行が、彼のアートにすり寄ってくる感じが面白かった。
 今なら、そのマザコンぶりもふくめて、オタク文化の遠い祖先と見ることもできるだろう。
 言い換えれば、今のオタク文化の源流を逆にたどって、ピカソやブラックのパピ・エ・コレにまで、遡って概観もできるかも。
 まるで、この時代の芸術家たちは、もしかしたら、ジャクソン・ポロックでさえも、絵を描く羽目になるのを懼れていたのではないかとさえ思った。自身で行為者になることを避けているかのように見える。
(それを考えると、戦後から今までのアートシーンに、規格大量生産と大量消費社会が私たちのマインドにおよぼした影響は、色濃く反映してきたんだなと思う。フォトリアリズムにしたって、結局、絵に見えたくないわけじゃない?)
 目が見るイメージを、手が独占していた時代が、とうに終わっているなら、それに固執する方が倒錯になる。
(結局、イメージを消費したかったわけなんだよね。)
 しかし、ものを見ることへの欲望がどこまでも肥大していく感じには、何となく不安を覚えた。
 日本人としては、草間彌生が、思いがけず、重要人物として登場するのにびっくりする。オノ・ヨーコもちょっとでてくる。
 彼女らが軽々と跳躍していく様子を、私はむしろ小気味よく感じた。
 結局、1人の不良少女に至るまで、女性の登場人物の方が力強さに満ちているといえないだろうか。
 一説によれば、サルバドール・ダリの自己演出でさえ、ほとんど嫁さんの振り付けだったという。
 ジョゼフ・コーネルという、この芸術家の伝記は、典型的な父性喪失の物語として読むことができる。その意味では、現代の日本人として、これが身につまされないのは、ちょっとウソではないかと思う。
 運命を受容するこころ優しさと、運命を生きる痛ましさ。
ジョゼフ・コーネルがフーテンの寅さんで、草間彌生がリリー。そんな幻想がちょっとうかぶわけ。優しくてタフなんだけど、でも、痛ましい。ジゼフ・コーネルほどではないとしても、その痛ましさは、現代人がいくぶんか共有していると思います。)