『遠い朝の本たち』

遠い朝の本たち (ちくま文庫)

遠い朝の本たち (ちくま文庫)

 須賀敦子が病床で最後まで推敲し続けたという。
 須賀敦子の随筆は詩に近いと思った。多くの作家が詩人としてキャリアをスタートするが、須賀敦子の資質が物語作家ではなかったということなんだろう。むかし読んだ本を探して、吉田健一訳のアン・リンドバーグにたどりつくくだりではなるほどと思った。
 テレビを見なくなって、最近思っているのは、結局、バカとウソは退屈だということ。須賀敦子はその対極にいる。
 ‘しいべ’というあだ名の幼なじみ、しげちゃんは修道女になっているのだが、難病でふいになくなるその直前に交わした会話。

 調布で会ったとき、大学のころの話をして、ほんとうにあのころはなにひとつわかってなかった、と私があきれると、しげちゃんはふっと涙ぐんで、言った。ほんとうよねえ、人生って、ただごとじゃないのよねえ、それなのに、私たちは、あんなに大いばりで、生きてた。

 それまでに描かれてきたしげちゃんの肖像に‘大いばり’という意外なひと言が、千研に一磨をくわえている。
 その一言に、しげちゃんの謙虚さと誠実さと、そして自負がみごとに表現されている。エッセーの逸話に描かれていないその後のしげちゃんの人生の厚みに、その一言で、思い巡らせることができる。
 クロード・モルガン著の『人間のしるし』について書いた「クレールという女」の章。

 三人の生き方について、私たちはいったい何時間しゃべりつづけただろうか。共通の世界観とか、自由なままでいるなかでの愛とか、まだほんとうに歩きはじめていもいない人生について流れる言葉は、たとえようもなく軽かった。やがてはそれぞれのかたちで知ることになる深いよろこびにも、どうにもならない挫折にも裏打ちされていなかったから、私たちの言葉は、その分だけ、はてしなく容易だった。

・・・音楽にすべてをかけて、クレールを「純粋」に愛することだけを考えたジャックが、収容所の病室で死んでしまうのは、小説としては当然なのだ。そう思いついたとき、ぱらぱらと作品があたまのなかでほどけはじめた。
 性急に生きて収容所で命を終えたジャックは、ひとつの思想でしかない。ほんとうに人生に参加したのは、クレールを守りたいと思って彼女と結婚し、妻から手紙をもらいつづけるジャックに嫉妬し、彼が死んだあと、わけのわからない力に押されるようにして、抵抗運動にとびこんでいったジャンだ。彼こそ、より人間らしいやり方でクレールを愛したのではなかったか。あれから四十年、『人間のしるし』への、それが私の答えだった。