日産ギャラリー ヘリテージイベント

 「東京オアシス」が‘ちょっと退屈’と書いている人がいてびっくりした。あれほどスリリングな映画が‘退屈’とは思いもよらない。
 ただ、人のことは言えないというのは、まだ十代の頃、大学の教授にチェーホフの「桜の園」の感想を聞かれて、高校生の頃読んだけれど、「なんかよくわかりませんでした」と、臆面もなく答えて失望させたことがある。数年後に読み直して、「これがどうしてわからなかったんだろう?」と不思議でしかたなかった。あのときの教授の顔は印象的だった。
 そんな具合に出会いのタイミングってやっぱりあると思う。ほかにも私自身の経験をあげると、たとえば、ベルナール・ビュフェの<ニューヨーク>。このブログであれについて書いたとき、‘こんなすごい絵は初めて。この絵の前にずっと座っていたい’みたいなことを書いたけれど、あとで調べてみたら、あの絵を見たのはあのときが二度目だった。オットー・ディックスの版画シリーズ<戦争>もそう。あんなにインパクトのある絵なのに、学生の頃は素通りしていた。
 「東京オアシス」は(と、昨日せっかくネタバレ対策をして書いたのに、ここで書いてしまうと何にもならないのだけれど)、最初のエピソードがやはりポイントで、しょっぱなに最大の緊張感をぶつけて、そのカタルシスを提示しないまま、2話目3話目と1話目の緊張を共有しない登場人物とのエピソードで、違う角度から主人公の輪郭を削りだしていく。
 それが小林聡美が演じるトウコの職業(?)のとらえどころのなさとリンクして、たとえば、加瀬亮との小ドライブは、往きなのか帰りなのか、そもそもどこかへ向かっているのか、それとも、どこかから逃げているのか。また、トウコの黒いドレスは喪服なのか違うのか、そもそも、この二人の会話はどこまでホントなのかウソなのか。そしてもちろん、最も重要な謎は、ふたりのファーストコンタクトにあることは、映画を見た人はわかるはずだ。
 その謎が、映画のなかで解けたのかというと、どうやらこういうことだったらしいな、くらいなところまでしかたどりつかない。その感じは、大震災で灯りが消えた、東京の夜のオープニングを、もう一度思い起こさせる。
 自己と他者の関係が、ありふれたドラマに収まりきっていた時代こそ私には退屈だ。すべてはわかりきらない。しかし、たしかにこんな風にして人は出会う。そういう映画だった。
 昨日、「ニューヨーク、アイラブユー」を例に出したけれど、ああいう映画が好きな人は楽しめるだろうと思う。
 横浜そごうからみなとみらいに行く途中に、NISSANギャラリーがあって、旧車がいっぱい展示中だった。
 クルマにはあまり興味がないのだけれど、シルヴィア、フェアレディーZ、GT−Rは、きれいだと思った。