高須光聖が松本人志という人を語るときによく上げるエピソードに、道路を掘り返している人たちを見て「あの人らが趣味であれやってたらおもろいのにな」と言ったというのがある。
レオス・カラックスの「ホーリー・モーターズ」を観て、まずはそれを思い出したわたしとしては、そのまま脱線して、松本人志のことを書くのだけれど、「一人ごっつ」はもうテレビの枠を超えていたと思うので、松本人志が映画を作り始めたときに期待したのは、あの「一人ごっつ」の感じをテレビ以外の枠で観られるのではないかということだった。
「しんぼる」はわたしはけっこう好きなんだけど、オチがすっきりしないのがちょっとどうかと思った。むりくり映画的にしてみましたみたいな。それは一方で、「『男はつらいよ』のどこが面白いのか分からない」と公言してはばからない松本人志の限界かもしれなくて、つまりは、さほど映画が好きではないのかも知れない。
映画愛とか歯が浮くことを言わないまでも、たとえば、タランティーノが、よほどの映画好きでないと分からない小ネタをちりばめて喜んでいる感じとか、井筒和幸がCGを使わない爆破シーンにこだわって、あやうく妻夫木聡を吹っ飛ばしかけたエピソードとか、そういう物狂おしさみたいな部分が、やっぱりないのかなと思ってしまう。
つまり、わたしが松本人志の映画に期待したのは、この「ホーリー・モーターズ」みたいなことだった、のではないかなと、この映画を観てそう思っただけのことだけれど。たとえば、墓場のシーンなんて、松本人志なら、もっと面白いのになと思うけど、ひいき目なのか、それとも根本的に鑑賞のしかたが間違ってる?。
しかし、不思議な映画だった。リムジンの内部が楽屋の化粧前みたいになってて、それでパリのあちこちを流しながら、いろんなシーンを演じていく男と、そのリムジンの女性ドライバーの一日。
「次のアポは・・・」とか、「カメラがあった昔が懐かしいよ」とか、「まだこの仕事をつづけてるの?(だったかな)」みたいな台詞があるので、いちおう、何らかの仕事であるかの設定に思わざるえないのだけれど、珍商売の記録映画であるはずもなく、最後に主人公が帰っていったマイホームのありさまを思えば、自己の統合性に対する徹底的な挑戦といちおうそう理解した。
たしかに、映画を観ようとする動機のなかには、違う自己をバーチャルに生きようという気持ちもあることは確かだから、映画の主人公が決定的に分裂した自己を生きていることに異議をはさむわけにもいかない。
そういうふうに考えて、どういうわけか「東京オアシス」が心に浮かんだ。あの映画も主人公のトウコが、東京をへめぐる映画だった。この映画のように地獄巡りの様相は呈していないが、でも「東京オアシス」を比較に持ってくると、「ホーリー・モーターズ」は、自己の統合性を否定する作り手の自意識がすこし表に出過ぎている印象も持つ。
「東京オアシス」がみごとだったのは、最初に非日常的なイベントを提示して、そのあと、それがだんだんと平凡な日常に、いわば、静まっていく感じが、多角的な視点から、自己と他者のつながりとへだたりを立体的に描き出していたところだと思っている。
「ホーリー・モーターズ」は、破壊しただけで再統合していないという感じがする。でも、主人公がじつは、タイトル通りだとすると、それはそれでオチになるけどね。
ま、そういう意味で、わたしは松本人志にこれ系の映画を作ってほしいなと思ったわけだった。