今日、横浜のジャック&ベティに行ったのだけれど、大岡川の桜は跡形もなく散っていて、「桜祭りは悪天候のため中止になりました」という貼り紙が。昨日の雨はただの雨ではなかったし、今朝の風はただの風ではなかったので、散った花びらさえほとんど残っていない。今年の桜はめずらしいことだった。例年、この季節は、桜を追いかけてあちこちでかけるのだけれど、今年は桜の便りも聞かないうちにさっと咲いてぱっと散ってしまった。かと思えば、何年か前みたいにずいぶん長く咲き続けている年もあったり。桜は春のスペシャリストらしく、今年みたいな天候不順の年でも、ここぞというピンポイントの時期を探して花を咲かせる。
映画の話はまた今度で、今日は森まゆみの『千駄木の漱石』という本について。
森まゆみがどういう人なのか知らないけれど、なにか、郷土史家が自分の町の歴史を書くような調子で書いている。
坪内祐三の『靖国』もそうだったと思うのだけれど、つまり、東京というまぎれもなく他のどんな場所とも違う個性を持った場所との関係で、靖国にしても、漱石にしても、いままではそういう風にはとらえられてこなかったことを、とらえ直そうという、ある意味ではもっともな気運とまでいわなくても、そういうひとたちが出てきても不思議ではないのだろうと思う。
それは、明治以来、歴史という名の固定観念が、ものを見る目を支配してきたのが、最近、ようやくはがれ落ち始めているということの、あるあらわれと見てもいる。
漱石が当時住んでいた家が、じつは、その前に住んでいたのは誰それで、その大家さんは誰で、その周囲にあった学校、車屋、銭湯はどうだったか、といったことを丹念にマッピングしていくことが『吾輩は猫である』を読む楽しみを増してくれるのはたしかなことで、それは偶然にも、この前読んだ『ナボコフの文学講義』で、ナボコフが、グレゴールザムザの部屋の配置や、ジキル&ハイドの家と通りの見取り図を、正確に図解する態度と通じている。
これは誤解かも知れないけれど、20世紀の態度は、そうじゃなかった気がする。文学の専門家の人たちは、例えば、漱石なら漱石、藤村なら藤村が、文学史のどの段階にいるのか、とか、文学の発展にどのように寄与しているのか、とか、寝ても覚めても、そんなことばっかりを気にしていたような気がする。
で、それは‘もういいよ’っていうのが、今の気分なのは確かみたい。
たとえば、20世紀には‘本格小説’なんていう言葉があって、あれこれの小説を‘これは本格じゃない’とか、‘これは本格です’とか、そういう判定をするのが文学の専門家の仕事だったみたい。
その背景には、文学に限らず、発展的歴史観みたいのがあって、歴史の発展段階のいちばん先端を走っているのが西洋で、日本はその後塵を拝しているけれど、ただし、東洋では一番先頭ですみたいな、西洋に対してはおもいっきり卑屈でありながら、アジアの他の国々に対しては、思いっきり勘違いみたいなコンプレックス状態にわたしたちの国はおかれていたみたい。
で、これは何度か書いてきたけど、新井白石がシドッティという密行の伴天連と謁見したときには、キリスト教の教義を聞いて、失望している。ほとんど哀れんでるといってもいい。ところが、明治になると、正宗白鳥なんかほとんど無批判にキリスト教の方が仏教より優れていると思い込んでる。
不思議だけど、ふりかえって今のわたしたちはどうかといえば、どちらとも比較にならないレベルながら、どちらかといえば、新井白石に近いのではないかと思う。それは歴史という呪縛がとけたからだと思う。
そうなると、夏目漱石を西洋文学とくらべてどうだこうだというよりも、『吾輩は猫である』が書かれた当時の漱石とか、『道草』のモデルになった養父と漱石がすれ違った道とか、そういうことのほうが、小説を鑑賞する上で有意義だと人は思い始めている。そういう状況があって成立する本だな。
『吾輩は猫である』の原稿が書き上がると、漱石は、訪ねてきた寺田寅彦なんかと朗読して笑っていたそうだ。そういう話を聞くと、木曜会なんていう夏目漱石と弟子たちの集まりは、サロンというより、田中優子が書いていた、江戸時代の‘連’に似ているようにさえ思う。そういう仲間内の寄り合いみたいなところから、日本の近代小説の名作が生まれたと思うと何か楽しい。