- 作者: ウラジーミル・ナボコフ,小笠原豊樹
- 出版社/メーカー: 河出書房新社
- 発売日: 2013/07/05
- メディア: 文庫
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下巻は、トルストイ、チェーホフ、ゴーリキー。
ナボコフは、トルストイの『アンナ・カレーニナ』を,断じて『アンナ・カレーニン』と翻訳すべきだと主張している。なぜなら、カレーニンという人の奥さんを‘カレーニナ’と呼ぶのは、ロシア語の習慣にすぎないわけで、それを翻訳にまで反映させるのはおかしいということらしい。二つの言語を往き来するナボコフがそういうのだから、そうかもしれないが、あだに深読みするならば、ナボコフとしては、このトルストイの名作をロシアの地方性から解き放ちたいのだろう。
トルストイの小説でナボコフが取り上げているのは、これともうひとつ、『イワン・イリイッチの死』。これは、長編というには短い小説。
『アンナ・カレーニナ』以降のトルストイ、晩年のトルストイ、トルストイ教、トルストイ主義のトルストイについて、ナボコフは否定していない。肯定もしていないけど。ナボコフがこれを書いている時点では、まだ米ソが冷戦を戦っていたが、今となっては、ソビエト社会主義の運命と,トルストイ主義の運命は、私にはかぶって見えてしまうが、それでも,トルストイ主義の方がまだしもだったという気もする。
この本の帯には、「ナボコフ、トルストイを大いに讃える。」とあるのだけれど、どちらかというと、「ナボコフ、チェーホフに涙する」といった読後感。
チェーホフの本は、ユーモラスな人々にとっては悲しい本である。すなわち、ユーモアの感覚をそなえた読者だけが、その悲しさを本当に味わうことができる。
(略)
この作家にとって物事は滑稽であると同時に悲しいのだが、滑稽さが分からない人には悲しさも分からない。
ツルゲーネフがおもむろに腰を下ろして風景を語る場合、彼がズボンの皺を気にするように自分の文章を気にしていることは一目瞭然だろう。
(略)
文法上の多少の誤りや、新聞記事的にぞんざいな文章でさえ、チェーホフは全く気にかけなかった。けれども不思議なことには、悧巧な初心者なら避けるに違いない些細な欠陥にもかかわらず、また言葉の世界の平凡人、いや平凡に満足しきっていたにもかかわらず、豊かで美しい散文の何たるかを知っているつもりの作家たちを遙かに越えるような、芸術的な美しさをチェーホフは伝えることができたのである。
個人的なロシアの旅の前に、参考になるかと思って、チェーホフの『サハリン島』を読みかけたことがある。途中で,全く関係ないことに気づいて放棄したが、ロシア人と日本人が似ていると思う点の一つは、この道徳心の高さと政治的な無能の落差である。
ゴーリキーについて、ナボコフの原稿から削除された一節に、ゴーリキーをチェーホフと同じ講義でとりあげるのは,ゴーリキーにとって酷だと思うが、しかし、この両者のコントラストが有益であると判断してとりあげたとあり、21世紀のロシアが今よりよい国であったとしたら、そのころ、ゴーリキーは教科書に名前が載っているだけの存在だろうけれど
と書いている。