アメリカン・ポップアート ジョン&キミコ・パワーズコレクション

knockeye2013-08-29

 新国立美術館に、ジョン&キミコ・パワーズ夫妻の「アメリカン・ポップアート」を観に行ったのだけれど、それはもうお盆前。
 アンディ・ウォーホルの200個のキャンベルスープ

が来ていて話題になっているけれど、コレクションの中心は、シャスパー・ジョーンズの作品群で、図録のキミコ・パワーズ

のインタビューだと、亡くなった夫君のジョン氏がもっとも好きだったのがジャスパー・ジョーンズなのだそうで、現在、コンプリート・コレクションを目指しているそう。

 シャスパー・ジョーンズのこの作品は0から9までの数字が作品のモチーフになっているけれど、これをアンディ・ウォーホルキャンベルスープと較べると、キャンベルスープという記号を記号のままコピぺしているアンディ・ウォーホルに対して、ジャスパー・ジョーンズは数字という記号にも彼自身の思想を反映させている。
 思い出してみると、マルセル・デュシャンが美術館に展示した便器は、便器というタイトルをつけられなかったし、ルネ・マグリットはパイプの絵に「これはパイプではない」と書き込んだ。ジャスパー・ジョーンズの態度は、複製可能な人工物について、デュシャンマグリットの態度と、ウォーホルの間にいるように見える、というのは、数字は数字、あるいは、星条旗星条旗でありながら、しかし、そこに彼の痕跡を残すことをやめるつもりはないようだし。
 遡れば、アンリ・リヴィエールやデュフィエッフェル塔を描いたとき、すでにそれは、エッフェルという別の作家の引用だったのだし、ベルナール・ビュフェの摩天楼も、建築家の名前こそ知らないけれど、引用であることは同じだった。
 人工物を避けて通ることは、ヌードをヴィーナスと名付けるのと同じ質の欺瞞だが、そこに生じる疑問は、そもそもいくらでも複製可能な工業的な人工物を絵に描く意味は?ということかもしれない。しかし、デュフィとリヴィエールのエッフェル塔が違うように、ウォーホルのキャンベル・スープは,結局、ウォーホルのキャンベル・スープだ。たぶん、個性とか自由という感覚は、決定的に経験的なものなので、その経験は積み重ねる価値があるのだろう。
 ジャスパー・ジョーンズをまとめて観る機会は今回が初めてだった。ハッチングというシリーズがあって、

 これなんか、‘ひっかく’というか、なにかに‘傷跡を残す’ジャスパー・ジョーンズの欲望の本質みたいなものに見えてしまうわけだけど、私の場合、昔から、この人の絵を観るときに感じるのは、安らぎであったり、落ち着きであったりする。ひっかく名人だからなんだろう。
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 ロイ・リキテンシュタイン

は、もちろんのこととして、今回、発見したのは、トム・ウェッセルマン。

抽象的なのに、具象的なヌードよりずっとなまめかしい。具象=写実ではないということを示しているわけです。
 面白いのは、

この絵のルノワールはたしかクラークコレクションなので、トム・ウェッセルマンはそこで観たんだなと。すると、

この静物画のカーテンの感じなんか、おなじコレクションのシスラーを思い起こさせるなと思ったわけです。