レオナール・フジタ展

knockeye2013-08-31

 何かの記事で見かけた話だが、8月31日に夏休みの宿題に取り組んでいる人は、絶対に金持ちになれないそうです。俗説にちがいないけど、なかなかの説得力。今、宿題に取り組んでいるあなた、そういうことだそうです。
 そういいつつ、わたしのやっていることは、この夏の出来事を何とか8月中に書き終えられないかということ、夏休みの絵日記を思い出してしまう。その日の天気くらいメモしておけばよさそうなものなのに書かないんだよね。
 それはともかく、この日は、Bunkamuraレオナール・フジタを観にいった。

 いっしょに展示されているキスリングやモディリアーニの絵もよいけれど、色といえる色は全く使われていない、この乳白色の衝撃は大変なものだったろうと納得してしまう。
 しかし、このすばらしき乳白色で一躍エコール・ド・パリの寵児となったその絶頂期でさえ、あれは、日本画の技法で油絵を描いているだけ、つまり、日本文化の切り売りだ、みたいな陰口をいう人が,日本には多かったそうで、それはたとえば、今、村上隆がやっているようなことを、日本のアニメ文化の横領だ、みたいなことを言う人と、よく似てますよね。
 そのくせ、フランスに行く日本の画家たちのなかには、フジタの名声をたよりにするものも多かったそうで、ときには寄宿し、めしを食わせてもらうまでならまだしも、食後の皿洗いまでフジタにやらせていたものもあるそうで、これを伝記で読んだときは、人ごとながら頭に来たのは、その後、戦争に負けると、当時の日本美術会は、従軍画家として戦争に協力した責任をフジタ一人におっかぶせようとした。その連中の中に、フジタに世話になった人がいなかったわけはないと思うと、陰口たたいて、都合のいいときはおんぶにだっこで、最期に責任は全部なすりつける、などというのは、日本の美術界もたいしたタマだ。ちなみにフジタの戦犯容疑は1947年にはすでに正式に晴れている。
 今、東京国立近代美術館にある「アッツ島玉砕」は、フジタ渾身の力作だ。すばらしき乳白色の裸婦を認めて、「アッツ島玉砕」を認めないのは、単に‘偏向’というべきだろう。
 フジタはおそらく、パリ画壇で成功しながらも、上流社会だけを顧客にする美術のあり方にあきたらない思いでいて、ディエゴ・リベラをメキシコに訪ねたとき、その壁画に触発されて、自分も画家として,故国のために何かできないかと思っていた。想像を逞しくしすぎだとはいえないだろう。「壁画について」という随筆に
「画家が、いたずらに名門富豪の個人的愛玩のみに奉仕することなく、大衆のための奉仕を考えなければならないと思う。」
と書いている。
 絵が展示された「国民総力決戦美術展」は、名称こそぞっとしないけれど、その絵の前で老婆が手を合わせたという話を聞いたとき、フジタが感じた手応えは、そうした文脈で捉えるべきだと思う。
 オットー・ディックスや、マックス・エルンストが兵士として参加した第一次大戦を、フジタはパリにいて赤十字に志願して体験している。その違いは大きいと思う。
 フジタは、第二次大戦後に,初めて、故国に、また,社会に裏切られるのだった。「アッツ島玉砕」は、社会とともにあったフジタのある頂点と、たしかに、言える。
 今回、Bunkamuraに展示されている絵の多くは、その後の作品が多い。子供たちの絵。フジタは、目に見たものを紙に写す技術という点では天才だった。日本から来客があると、適当な木の葉を手に持たせ、それをスケッチして、木の葉を重ねると寸分違わなかったという、そういう座興で、客を驚かせていたそうだ。すばらしき乳白色から「アッツ島玉砕」までの絵は、その名刀でばったばったと切り倒すといった絵だった。しかし、戦後の子供たちの絵は、すばらしく崩れている。若い頃、初めてピカソの画室を訪ねたとき、アンリ・ルソーの絵を観て、「絵とはかくも自由なものか」と悟ったという、その自由を、うまさの代わりに手に入れたとも見える。
 ピカソもそうだけれど,生まれつき絵のうまい人は、うまさ以上のものを手に入れようとする。画家がうまさを捨てていこうとするときは、写すだけでは表現できないなにかを内面に抱えているときなのかもしれない。この歪みつつ愛くるしく、しかし、どこか意地悪にも見える子供たちを見ていると、そんなことを考えさせられる。