国吉康雄

knockeye2016-07-22

 多分もう会期は終わったと思うが、横浜SOGO美術館で国吉康雄展を観た。
 国吉康雄レオナール・フジタは同時代人で、フジタがフランスで成功したその時期に、国吉康雄はアメリカで画家としての地位を確立した。
 しかし、2人の大きな違いは、フジタが画家としてパリに渡ったのとちがって、国吉康雄は労働移民として渡米して、言葉の不自由を補うために描いていた絵を見出されて、アメリカで絵を学んだ、チャンスの国、アメリカらしいエピソードを持つ。
 本人もアメリカの画家としてアメリカの美術界に自分の居場所を見ていただろうと思われる。当時、画家として成功したと言っても、パリで成功するのとアメリカで成功するのでは、まったく意味が違った。
 パリで画家として成功したとすれば、その意味は、画家として成功したことだが、アメリカで画家として成功したとすれば、それは、アメリカ人として成功したことなのだ。
 エコール・ド・パリのパリにいて、フジタが日本人としてのアイデンティティを育んだ同じくらいの強さで、国吉康雄はアメリカ人としてのアイデンティティを獲得していったと思う。なぜなら、先に書いたように、国吉康雄は、画家を志して国を出たのではなく、アメリカ人になろうと国を出たはずだからである。
 そういう経歴の差は、そのまま第二次大戦に対する態度の差としてあらわれる。国吉康雄が、軍国化する祖国に対して憤りを覚え、反ファシズムの態度を鮮明にしたのは、あまりにも当然だと思える。
 国吉康雄は、アメリカ戦時情報局の求めに応じて、反戦ポスターの原画を描いている。こんな感じ。


 たぶん今なら、ネトウヨが「反日」だの何だのと騒ぐことだろうが、この国吉康雄の態度は、フジタの態度より、今の私たちには想像しやすいと思えるがどうだろうか。ところが、実際には、この絵がポスターになることはなかった。当のアメリカ市民が戦時情報局に反発した。
 もちろん、アメリカ政府は、日系人を収容所送りにしたわけだが、上にあげたエピソードは、それに反発する市民も多くいたことを示しているが、この原画を描いた年、1942年、ある葬儀に国吉と参列した友人は、歩道沿いの人々が、あたかも「敵がいるかのように」ヤスを睨みつけていた、と述懐している。しかし、この絵を見る限り、その感情を国吉康雄が共有していたことは明らかだ。では、国吉康雄は何を憎めばよかったのか、と思うと、苦い思いがこみ上げてくる。この絵を直視できない気がした。
 ためしに、フジタの描いた《アッツ島玉砕》と、この国吉康雄の絵を比べてみて、どちらがプロパガンダで、どちらがよりヘイトな内容を感じさせるだろうか。あるいは、どちらがより戦争に協力しているだろうか?。この葛藤は、その後の国吉康雄を苦しめ続けることになったと思う。
 フジタには、幸か不幸か、政治的感覚は皆無と言っていい。《アッツ島玉砕》は、絵画をサロンから民衆へと解放したいという、ディエゴ・リベラなどによるメキシコの壁画運動に触発された思いと、おそらくは、ダ・ヴィンチの《アンギアーリの戦い》のようなマスターピースを描きたいという思い。そこに近代市民の意識は微塵もない。あるのは、画工の情念だけだろう。
 にもかかわらず、あの絵を描いたことで、フジタもまた深傷を負ったように見える。
 ふたりが戦後描いた絵がどこか似ているように思えてしまう。


 ところで、これも書き忘れていたが、浅田彰が、映画「FOUJITA」をケチョンケチョンにけなしていた。
『Fujita』はなぜ映画としても伝記としても失敗なのか REALKYOTO 『Fujita』はなぜ映画としても伝記としても失敗なのか REALKYOTO
 小栗康平監督は、あの映画が伝記的になるのは、敢えて避けたと思う。ま、「逃げた」とも言えるのだが、監督インタビューでも「藤田嗣治というややこしい人のことは」忘れて、フジタの絵の「静謐さ」だけを考えたと言っていた。それにしても、エコール・ド・パリの画家たちが集ったシェ・ノワールの描写はひどかったと思うが、そこに目を瞑りさえすれば、うまく逃げおおせたのかなと思ってたが、浅田彰に言わせると、オダギリ・ジョーのフランス語が聞くに堪えないのだそうだ。
 それを言われっちゃうと、フランス語がわからないこちらとしては苦笑いするしかないが、確かに、レオナール・フジタのような興味深い人物を主人公に据えて、あんなことか?という、浅田彰の腹立ちは分からないではないものの、小栗康平からしょうがない気がする。ロン・ハワードじゃないんだし。