「ザ・マスター」

knockeye2013-04-03

 日比谷シャンテで「ザ・マスター」。
 土地勘のある方は、お気づきのように、クラークコレクション、「シュガーマン」、そしてこの映画は徒歩圏内。だからこの記事は、まだ土曜日の続き。じつは、日曜日は真冬の寒さに加えて、厚い雲が低く垂れ込めて、どこへもでかける気がしなかった。
 フィリップ・シーモア・ホフマンエイミー・アダムスの共演に惹かれて観にいった映画だが、はからずも「リインカーネーション」というキーワードで、こないだの「クラウド アトラス」とリンクしていた。
 といっても、ラナ・ウォシャウスキーが「『クラウド アトラス』の原作者(デイヴィッド・ミッチェル)が信じているので・・・」というような意味で、ポール・トーマス・アンダーソン監督が輪廻転生を信じているかといえば、それはまったくそうではない。フィリップ・シーモア・ホフマンが演じる、ひとくせふたくせある新興宗教の代表‘ザ・マスター’がそれを唱えているというにすぎない。
 この宗教のモデルがサイエントロジーという現に存在する宗教団体であるとか言われているが、そういうゴシップめいた裏話は鑑賞のじゃまになるだけだと思う。この‘ザ・マスター’の思想に対して、ポール・トーマス・アンダーソン監督がとっている距離感はみごとにフェアで、観客にしっぽをつかませたりしない。
 主人公は、ホアキン・フェニックスが演じる、フレディという太平洋戦争の帰還兵。この映画のウエブ、トップページに、「男はただ、信じようとした。」とコピーがあるのだけれど、まずいコピーだと思う。そういう風に書くと、この主人公がまるで、中島知子みたいな人間関係依存症で、たまたまであった新興宗教の教祖に全存在でもたれかかった狂信者のように思えてしまうが、実際にこの映画を観た人は分かると思うが、この男、フレディは、全然信じようとしていない。そもそも何かを信じるタイプの人間だとすら思えない。やりたい放題生きている。おそらく、自分でも制御できない決定的な行動原理に突き動かされて生きているタイプの人間だと思う。
 そして、‘ザ・マスター’の方もまた、同種の人間らしく思える。この二人を最初に結びつけたのは、フレディが軍役の間に製造法を身につけた、奇妙な密造酒なのである。単純化して言えば、自分で酒を造る男と、自分で神を作る男の出会い。ザ・マスターもまた、自分の内なる行動原理に突き動かされて生きている。その意味で、この人は評論家やジャーナリストではなくやはり宗教家だといえる。
 ひとりは新興宗教創始者、ひとりはトラウマを抱えた帰還兵、だが、そういう意味で同じ行動原理を生きているふたりが、ある一時期に偶然からみあい、やがて離れていく、そういうお話。さっきから‘行動原理’という言葉を使っているが、誤解されずに済むなら‘宿命’と言い換えてもいい。ただ、もし‘宿命’という言葉を使うなら、わたしたちは、このふたりの物語の背後にリインカーネーションの存在を信じ始めていることになるだろう。
 わたしが気に入ったのは、フレディとザ・マスターの再会シーン。詩的だとおもった。古い友人との再会、とっくに終わった元カノとの再会、どんな再会でも、再会がむしろ別れと出会いの意味を決定するといった経験をした人も多いのではないか。再会が忘却の淵から出会いの物語を紡ぎ、別れの歌を歌う。映画のところどころは、フレディの妄想か現実かはっきりしない。それがこの映画をスリリングにしていると思う。
 もうひとつ、フレディがザ・マスターのために暴力をふるうシーンがいくつかあるが、最初のと最後のとではコンテキストが違っている。最後の時は、フレディ自身の心も、ザ・マスターから離れつつあると気づき始めている。ほとんど無言だが、ホアキン・フェニックスのそのへんの演じわけはすごいと思った。
 フィリップ・シーモア・ホフマンエイミー・アダムスホアキン・フェニックスの演技、そして、ポール・トーマス・アンダーソン監督の演出、鋭い角度に切り込まれ、彫琢された味わい。やっぱりお金を出して観にいくならこういう映画にすべきだと思うんです。ウエブサイトのコメントを見ると、いろんな人が誉めまくっているけど、実際、正確に誉めるのもむずかしいくらいです。なかで「桐島。部活やめるってよ」の吉田大八監督は「いっそ見なかったことにして忘れたいレベル」と書いている。その気持ちは分かる気がする。