「25年目の弦楽四重奏」

knockeye2013-07-13

 丸谷才一の最後の長編小説となった『持ち重りする薔薇の花』も、この映画とおなじく弦楽四重奏団を主人公にした小説だった。純粋芸術の極致に身を献げている人たちの、あまりにも人間的な諍い。これを「笹まくら」「横しぐれ」「女ざかり」の丸谷才一が手がけるのだから、面白くないはずがないと読み始めたのだけれど、いつもよりおかずが少ないというか、ひと味たりないという読後感で、あれどうしたのかなと思っているうちに訃報に接したのだった。まさしく楽器をおいて静かに立ち去るような最期だったように思う。
 この映画「25年目の弦楽四重奏」の構想も、丸谷才一が目指したものと同じだと思う。ニューヨーク、ジュリアード、才能、音楽、家族。
 監督のヤーロン・ジルバーマンという人はずいぶんと寡作のようで、2004年の前作「Watermarks」は初監督作品で、しかも、ドキュメンタリー。フィクションとしてはこれが初めてなのに、自ら手がけた脚本がすばらしい。マサチューセッツ工科大学で物理学の学士号を獲っているそうで、そういわれるとなるほどと思う、数学的な必然性みたいな説得力がある。
 パンフレットに寄せている文章では、ベートーヴェン弦楽四重奏曲第14番を「作品の柱にした」そうだ。クラシックにくわしい人なら、ここでうなっちゃうのかも。以下引用。
「4楽章がスタンダードだった時代に7楽章編成になっているなど、この楽曲には革命的な要素がたくさんある。各楽章は形式も長さもテンポも異なっていて、そのパターンをなぞるようにして脚本を書いた。
 この曲の面白い点は、ベートーヴェンがこの曲を「アタッカ」で演奏すべき、つまり楽章の間にポーズを入れずに演奏すべきと言ったところにある。40分間も休憩なしで演奏するとなると、楽器の音程はばらばらに狂っていく。演奏家たちはどうしたらいいのか。どこかで演奏を止めてチューニングをするのか。それとも、個として、かつ楽団全体としての統一されたピッチを探りながら最後まで続けるのか。これは、長きにわたる人間関係の格好のメタファーだと思った。」
 制作に当たって、ジュリアードのアタッカ・カルテットを数ヶ月にわたって撮影し、また、この映画の演奏もしているブレンターノ弦楽四重奏団が実際に14番を弾くところを五台のカメラで撮影し、出演者が役作りする参考にしたそうだ。
 また、シナリオには、グァルネリ弦楽四重奏団、イタリア弦楽四重奏団、エマーソン弦楽四重奏団のエピソードが反映しているそうだ。
 各キャストには、いつでも練習できるように最低2人のコーチをつけていたそうで、ちなみに、フィリップ・シーモア・ホフマンのコーチは、NYを拠点に活動する日本人ヴァイオリニスト、岩田ななえと徳永慶子が担当した。岩田ななえのインタビューによると、この映画には‘音楽家あるある’が満載だそうだ。 
 じつは、この映画には、主役以外にも演奏家が登場するシーンがあるのだけれど、「この役者の演奏へただな、やっぱちょい役だからかな」とか思ってたら、パンフレットで確認すると、そのちょい役の人だけが、世界的に有名なホンモノの音楽家だと知ってびっくり。役者ってすごいなと思った。ホンモノよりうまく見せてしまう。
 この映画は断然おすすめなんだけれど、どういうわけか、関東全域で、たった2館でしか上映していない。そのせいもあってか、三連休もあってか、会場はほぼ満席。わたしのとなりはお歳を召した男性、後ろはお歳を召した女性だったのだけれど、後ろのおばさんが笑ったと思ったら、となりのおじさんが泣きだすといった調子で、泣いているおじさんがチェロだとすれば、笑っているおばさんがビオラだと思って、わたしは第二ヴァイオリンになったつもりで静かに鑑賞していた。
 撮影中にちょっとした奇跡に恵まれたらしいのは、マンハッタンの数十年ぶりという大雪で、美しい雪景色が物語に味わいを添えている。
 使われている楽器は本格的なもので、美術館の中での撮影もあり、レンブラントの自画像が効果的に使われていた。第一ヴァイオリンのダニエルが部屋にかけていたロウソクの絵は、もしかしたら高島野十郎かなと思ったけれど、違うかもしれない。Rumiko Ishiiといういかにも日本人な名前の人がアート・ディレクションをしているようなので、ちょっとそう思ったのだけれど、ロウソクの絵がすべて高島野十郎とは限らないし。