『創造力なき日本』

knockeye2013-07-14

 夏の美術館めぐりは苛酷である。ひっこしで気ぜわしくしていた間に中断していた美術展めぐりをまた性懲りもなく始めているのだけれど、何にも書いていないのは、帰ってぐったりしてしまうから。
 たとえば、川崎・砂子の里資料館館長斎藤文夫の浮世絵コレクションを展示している三菱一号館の展覧会なんて、サイトに
「展示室内は美術品保護のため、国際基準に合わせて温度を20℃前後に設定しております」
20℃!。外気温は35℃を超えているのに。
 これはでも以前に一度、出光美術館で、半袖、短パンで凍えそうになった経験から学習はしていて、暑いのを我慢してシアサッカーのジャケットなど羽織ってでかけるわけだけど、地下とか電車の中とかは大丈夫なんだけど、外歩くときは5分と着れないわけ。それでも、5分着れるのは、美術館で体が冷え切っているからなんだけれど。
 ボトムはクールマックスエドウィンのなんだけど、ほんとは短パンTシャツでも暑い。それで、図録を買うでしょ。これが重い。それをデカ目のトートバッグに入れてるんだけど、見るからに重そう、そして、暑そう。そして、現に、重いし暑い。
 それを先週の土曜日なんか4件はしごしてる。出光美術館では、展示が‘書’だし、ありていを言えば、ふらふらなわけ。読めりゃいいんだけど読めないし。一応、今の字で、ヨコに解説してくれてるので、読むでしょ。字を見て、字を見て・・・で、ほんとちょっと、お濠に向かった椅子の所で仮眠した。熱いお茶もらって。
 出光美術館三菱一号館、それとブリジストン美術館は、東京駅の徒歩圏内にあるので歩くわけです。ブリジストン美術館だけは八重洲口の方なので、ちょっと離れてる。わたくし方向音痴なので、いつもは地上を歩くんですけど、えらいもんですな、ブリジストン美術館の角から三菱一号館まで地下道を通って辿りつきました。これだけ暑いと動物的な防衛本能が働くんですかね。
 ブリジストン美術館は、マティスの「ジャズ」と、ルドンの「夢想(わが友アルマン・クラヴォーの想い出に)」が、全品公開されている。
 マティスが、カラダの衰えた晩年に発見したこの切り絵というスタイルは、マティスは色彩の画家だといわれるし、その通りではあるけれど、でも、魅力は‘線’だと、内心思っている人には、けっこう納得できる帰結なのだ。若い頃のダイナミックな筆の動きに替わるものとして、マティスはハサミを発見したと、わたしには見える。
 タイトルは、最後まで「サーカス」と迷ったそうなのだけれど、結局「ジャズ」にしたのは、その即興性の方が、より重要だったことを示していると思う。
 ルドンは、ついこないだまで新宿の東郷青児記念美術館でも展覧会をやっていて、それも駆け込みで観にいった。そこでも「夢想」の「日の光」を観た。それにポストカードにもなっていたので買った。ただ、ルドンは去年、三菱一号館で大規模な展覧会をやったので、まだその印象が強い。
 アルマン・クラヴォーは、一日のうち数時間だけ動物として生きる植物の研究をしていた。この神秘思想も、きっとキリスト教への挑戦のひとつだろう。西欧の正統としてのキリスト教は、常にこうした挑戦を受け続けているように思うし、どこか、ユダヤ人から奪い取った贋物といったイメージがまとわりついている。正統としてのキリスト教は、実は、ローマ帝国の政治の一部にすぎなくて、ヨーロッパの信仰はほんとは別にあるといった秘密の匂いは、キリスト教のまわりに常に漂っている。
 前後するけれど、オペラシティのアートギャラリーにも行って、匿名の9人のコレクションを観た。そのときに、村上隆の本を買って読んだ。この人が、現代美術の‘コンテキスト’の重要性を強調するのはホントにその通りだと思うし、それが、日本人が美術を思うときに、決定的に欠けていた部分だと思うので、そこを指摘した功績はすごく大きいと思う。
 日本人が、なぜそうした‘コンテキスト’の部分に鈍感になってしまったかは、わたしが思うには、明治維新で、それまでの‘コンテキスト’を、すべて捨て去ってしまったからだ。というか、そうした‘コンテキスト’を担ってきた、社会の層が崩壊してしまった。
 今、「へうげもの」のヒットでお茶がブームになりつつあるけれど、これをもう少し巨視的に観れば、日本人が自分たちの美の‘コンテキスト’を取りもどしつつあるととれるのかもしれない。
 つまり、井戸の茶碗なんて、あれはもともと朝鮮半島の雑器なんだけれど、日本の美術のコンテキストの中で、値段もつけられないような宝物になっているわけで、日本の美のコンテキストは書も絵も建築も、お茶を柱にして成立している。岡倉天心が「茶の本」を英語で出版したのは、やっぱり鋭かった。
 お茶はtea ceremonyと訳されるかもしれないけれど、ほんとはCeremonyよりは、おもてなしという意味のentertainingで、もっと包括的な芸術なんだろうと思う。和食が見た目にも美しいのも、もともとお茶から派生しているからだろう。日本食も世界に認知されて定着しているように思う。
 西洋芸術のコンテキストとは別に、日本にはお茶という独自の美の文脈があるということは、もうすこし世界に向けて発信していっていいのではないかと思う。
 ちなみに、こないだ映画館で配っている小冊子のインタビューをみていたら、今度、マッカーサーを演じるトミー・リー・ジョーンズが、歌舞伎のファンで、しかも、月岡芳年の絵を収集しているところなのだそうだ。NYでの歌舞伎公演は、いつも好評だとニューズウィークの特集記事にあったが、こういうところに目が配れる政治が存在してもいいんじゃないかと思うけど。無能な政治家は当然ながら、同時に無粋だろうな。