クリント・イーストウッドの最新作「ジャージー・ボーイズ」を観た。
これは、週刊文春のレビュアーが全員満点をつけるという異常事態だったので。
だが、縁起でもない話をさせてもらうと、丸谷才一の「持ち重りする薔薇の花」の読後感を思い出した。あのとき、たしかに丸谷才一だったけれど、なにかさらっとしているというか、アクとかエグ味みたいなしつこさが抜け落ちている感じがすると思っていたら、ほどなく訃報に接した。ほんとに縁起でもないけど。
元ネタの舞台に引きずられているのかもしれないが、あの独白は必要な演出であったかどうか、ちょっとわからない。ばっさりなくても成立するように思う。
三統一の法則に照らせば(って、そんなもんをひっぱりだしても何の意味もないのはじゅうじゅう承知しているものの)、ロックの殿堂のシーンから始まっても良さそうなものに思えた。
つまり、映画全体が懐古のトーンに統一されていれば、独白にも意味が出てくるわけでしょう。回想の中に現在がまぎれこむ面白さは、むしろ魅力的でありうる。
そういう、今、過去、今、過去、の切り替えの積み重ねから、現在の必然性と、過去の現在性が絡み合ってゆくはずだと思うのだけれど。たとえば「レイルウエイマン」とか。
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「悪魔は誰だ」という韓国映画を観た。
これは、井筒和幸がイチオシしていたので、んじゃっつうわけだった。
で、いきなりネタバレを書くのだけれど、娘を誘拐されて殺された母親が、時効成立してしまったあとに、執念で犯人を見つけて復讐する、そのやり方というか、いきさつというか、「なりゆき」というのがいちばん正しいか、それが秀逸。
なんだけど、ちょっと首をかしげるのは、あれだけ周到な完全犯罪を成立させた犯人が、時効の‘前に’軽率な行動に出るかな。
それがないと話が始まらないのはわかるんだけど、その発端にそうとう無理がある。推理小説なら、そこは致命的な弱点になるに違いないが、あらためて感じる、映画というメディアの白痴めいたところは、エピソードの出し入れとテンポの良さで、そのへん、なあなあでごまかせちゃう。
それから、細かいこと言うと、警察が撤収した現場に、機材を残していくかな。でも、そっちも、ないと成立しないんだよね。
だから、たまたま、警察が撤収するときに録音機材を置き去りにして、たまたま、犯人が時効成立前に犯行現場を訪れた、ということを飲み込めてしまえば、ほかは、すっごくよくできているし、ある意味では、そういう無理を観客に飲み込ませるちからわざも含めて、映画だといえるかもしれないし、韓国人の感覚はむしろ、ちょっと設定が無理でも、話が面白ければいいじゃん、ということなのかもしれない。