
- 作者: 大野晋,丸谷才一
- 出版社/メーカー: 中央公論社
- 発売日: 1994/08/01
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- 作者: 大野晋,丸谷才一
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朝早くから遅くまで働いている平日のバランサーとしても、休日はどこかにでかけたくなるのだけれど、今日はこの本を全部読むと決めて、ひきこもりくらした。というか、読み出したらとまらないくらい面白い。
大野晋には、岩波現代文庫にそのものずばりの『源氏物語』という本があるし、この本の解説を書いていたのが丸谷才一だった記憶がある。もしかしたら記憶違いで、それは角川ソフィア文庫の『源氏物語のもののあはれ』の方だったかもしれない。いまはどちらも故人になってしまっが、これはこの二人が源氏物語を通読しつつものした‘長編対談’とでもいうべきもので、大変読み応えがある。
そしてあらためて思うのは、『源氏物語』という本のすごさだ。もしかしたら、わたしたち日本人がいちばん源氏物語を知らないのかもしれないとさえ思う。1920年代に『源氏物語』を英訳したアーサー・ウェイリーは「紫式部の作品を凌ぐ長編小説は世界に存在しない」と言った。ホントなのかなと思いながら、現代語訳にとりかかってみるもののいつも挫折してしまうが、この本で、このふたりが先導となって、適当に読みとばしてくれるおかげで、そういうわたしも、源氏物語のすごさの一端をかいま見ることができた。
それにしても、1,000年前の日本語となると、さしもの丸谷才一も手こずらせるものらしく、抜粋して、丸谷才一が翻訳してある文も、大野晋と対談しながら、‘なるほど、ここはそういう意味か’みたいなことで、直したりすることも多い。また、大野晋も『紫式部日記』が読めるようになったのは、研究が進んだつい最近のことだとも語っている。
細部については、日本語の研究家でもむずかしいというのに、英訳されると英語圏の人たちも魅了してしまう。これも、丸谷才一が英語の書評を集めた本にあったことだが、「プルーストの『失われた時を求めて』を読むことが、ウェイリー訳の『源氏物語』を受け入れる準備になった」と書かれている書評もあった。
たしかに、六条御息所の生き霊のくだりもすごいけれど、「若菜」の光源氏と柏木のくだりがいきづまるようですごいと思った。これが千年も昔、10世紀に書かれたと思うと、日本人としては誇りたくなる。
で、ここから、話がきな臭くなって恐縮なのだが、これも以前書いたことのくりかえしになるのだけれど、いま、憲法を改訂して、天皇を国家元首に、とか、明治憲法を復活させよう、とかいっている連中が、どれだけちんけかということが、こういう本に接するとよく分かる。
そもそも、国家元首って何?。そんなものは昨日今日の思いつきにすぎない。天皇という存在は、日本史をどれだけ遡ってもそのはじまりにたどりつけず、神話と伝説の彼方にかき消えていく。日本という国よりも天皇の存在の方が古いかもしれないくらいなのだ。そういう存在を‘国家元首’などという胡散臭いお仕着せに閉じ込めようという画策自体が小役人の発想だ、ということが、分からない連中は日本文化を語る資格はないと思う。その連中は、‘国家元首’たらいうものが、‘天皇’より高級だと思えばこそ、天皇を‘国家元首’と言い換えたくなるのだろう。そこには彼らの西洋コンプレックスしかない。
そういうことを新宿駅前あたりで叫んでいる連中をよく見ろ。迷彩服、丸刈り、薄めのサングラス、日章旗、拡声器・・・。恥ずかしくて卒倒しそう。あれは、だから、あれが‘よい’と思えたそういう背景があったということを、わたしたちに教えてくれるという価値はある。明治憲法を作った連中は、ああいうものをありがたがったという生き証人であり、生きた化石なのである。‘バンザイ’とか、はずかしげもなく叫んで。
明治憲法など読んでも、天皇についてなにもわからない。もし、外国人に天皇について知ってもらいたいと思えば、ウエイリーかサイデンステッカー訳の『源氏物語』を読んでもらうべきなのである。
天皇は日本文化である。これはいうまでもない。しかし、国家元首は日本文化ではない。これもいうまでもない。だから、天皇を国家元首にすることはとりもなおさず日本文化の破壊であるのは、これまた、いうまでもない。にもかかわらず、天皇を国家元首にすることが‘日本独自の憲法だ’みたいなことを言っている。頭が悪すぎて論評するにあたらない。小学生の寝言?。