『世界文学としての源氏物語』

knockeye2013-12-07

 週刊文春に、坪内祐三が文庫本を紹介する連載がある。そこで、エドワード・サイデンステッカーの『東京 下町 山の手 1867−1923』というエッセーが文庫になったのを知って、さっそく注文した。そのとき、いっしょに買ったこっちを先に読んだ。
 伊井春樹という源氏物語の研究者、学者さんだと思うけど、個人的にもサイデンステッカーと親交のある人で、その対談、ときには鼎談。
 サイデンステッカーが亡くなる数年前になるのだが、源氏物語についてのシンポジウムがあったのを、高齢ということもあり、来ていただけない代わりに、こういう対談をかたちにした。
 伊井春樹という人が、阿川佐和子みたいにインタビュワーとしてのスキルが高いわけではなく、なんか同じ話を何度かしている感もあるが、専門家の話だし、それに、サイデンステッカーへの敬意の念が感じられる。
 サイデンステッカーという人の日本文化についての理解の深さはすごいと思った。おそらく、日本人でさえ、ここまで深く理解できている人は少ないだろうと思う。もっとも、そういうこという資格が「あんのか?」と突っ込まれると困るので「思う」と付けたしているわけ。
 『源氏物語』を翻訳したのは、アーサー・ウェイリーの翻訳を読んで、「傑作だ」と思ったと同時に、ウェイリーが翻訳していなかったり、勝手に付け足したりしている部分があるのを知って、自分で訳してみようと思ったのだそうだ。
 サイデンステッカー訳の『源氏物語』についての書評が、丸谷才一が英語の書評だけを集めた本に収められているが、たぶん、それについての言及もあった。「たぶん」というのは、今、その本がダンボール箱のどこにあるかわからないので、こう書くわけ。
 海外でいちばん読まれている日本の小説は、いまでも、『源氏物語』だと断言している。言われてみれば、なるほど、そりゃ当然だなと思う。それが古典ってことなんだし。
 それにしても、丸谷才一でさえも意味がとりづらかったりする源氏物語を、よく翻訳したものだなと思う。それについて、この人すごいなと思うのは、谷崎潤一郎は、ほとんど英語圏の作家かと思うほど、わかりやすいのだそうだ。それで、翻訳していて‘退屈’だと言っている。難しい方が楽しいんですと。
 難しさという点では、川端康成の文章が難しいそうだ。谷崎潤一郎は、源氏物語を現代語訳しているわけだが、川端康成はそれを「町人の源氏」だといって、自分で現代語訳しようとしていたらしい。谷崎の源氏にいっぱい書き込みをしている本を見たことがあるそうだ。
 サイデンステッカー自身は、現代語訳では与謝野晶子のがいちばん面白いと思っていたそうだ。
 「無常」という価値観がどのくらい理解されているのだろうという問いに対しても、それは世界に共通のことで、案外すんなりと受け入れられると答えている。
 源氏物語が世界の古典に名を連ねているのは、言語や文化の違い、あるいは、千年の時代を超えて、共感を呼び起こすからで、それが物珍しいからではない。普遍的だから価値があるので、特殊だからではない。当然のようだけれど、ときどき確認しておく価値があると思う。
 自分たちの文化は、おまえらの文化より上だ、みたいなことを言いたがるものたちが、蔑まれるのも世界共通の価値観だろうと思う。そういう考え方を、つまり、「未開」という。