特定秘密保護法についてのハフィントン・ポストの記事

knockeye2013-12-06

 特定秘密保護法が成立した。金曜日の国会前はデモの人ですごかったそうだ。
 安倍晋三首相は、おそらく、60年安保のときのおじいちゃんの姿を自分にだぶらせていることだろう。
 岸信介を、福田和也が評価していたけれど、それはやっぱり、民主主義の発想ではないと思う。つまり、岸信介の優秀さは、あくまでも官僚としてのそれにすぎない。日本人にとって、○○ならこんなときどうしただろう?と思いを馳せられるような、そういう意味での優れた政治家は、まだいないのだろう。
 ハフィントン・ポストは、この法律の問題点は

「国家にとっての利益」と「公務員にとって利益」の区別が曖昧になってしまうという点

だとして、

大量の核兵器保有し、世界各国で諜報活動や軍事活動を行う米国ですら、機密扱いにする期間は最長25年を原則としており、第三者による検証システムを設置している

にもかかわらず、今回の日本の特定秘密保護法では

第三者によるチェック機能がなく、指定期間が60年もの長期間

であるのは、

60年も経過した後では、当事者の多くは死亡している可能性が高く、その責任を追及することすらできない

ことを、官僚が織り込んでいるためなのは明らかで、この法律は、

国家の利益を保護するためのものではなく、多分に公務員の利益を保護するためのものだ

と断じきっている。そして、

あらゆる政策がそうなのだが、「国民」対「国家」という対立図式になることはそれほど多くない。現実には「国民」対「公務員」、あるいは「公務員」対「公務員」という利害関係になることがほとんど

だからこそ、国民の意見を代弁すべき国会議員には大きな権限が与えられているにもかかわらず、

議員の発言を聞いていると、それはむしろ、監督される側の公務員の思考回路と重複している。

したがって、この法律の最大の問題点は

国家権力におけるこうした基本的な図式について、国民から選ばれている国会議員が明確に認識していないという現状にある。

そして、その国会議員を選んだのはわたしたち国民だと指摘している。
 デモは否定しないけれど、民主主義にとって選挙がいかに大事かということだろう。政治家に選挙公約を守らせること。
 今回の事態の発端は、さかのぼって、民主党マニフェストを選挙に掲げて闘いながら、選挙後一週間でそのマニフェストを破棄したことだろう。
 あのときも書いたけれど、マニフェストという国民との約束を背景にしなければ、官僚と戦えるはずがない。あの時点で、民主党は推進力を失ったのであり、その意味で、小沢一郎の罪は重いと思う。
 私に限らず、野田政権を思い返せば、安倍政権の露払いのようにしか見えないのではないだろうか。
 また、上のような指摘がハフィントン・ポストの記事でしか読めない、日本のマスコミの空洞化は、郵政選挙で、民意が郵政民営化を支持したにも拘わらず、反小泉キャンペーンを張って、マスコミが官僚に利したことで決定的になった。
 先日、町山智浩の文春の記事を紹介したけれど、「郵政は国の要だ」みたいな、2行もあれば否定できる床屋政治論を、選挙結果に優先させて、民主主義者といえるだろうか。
 日本では、政治家もマスコミも官僚に支配されている。このことは、明治維新に西洋を模倣して近代化を果たした、つまり、近代化に官僚という仲介役を必要とした、日本固有の因習であり、その顕在化した症状が、太平洋戦争なのであり、財政赤字なのであり、原発事故なのであり、日本人が取り組んでいかなければならないのは、こうした官僚支配の解消であることに変わりはない。
 わたしたちは、わたしたちの公共心を足がかりにしておかしいことはおかしいと言い続けていくしかないだろうと思う。
 ただ、ひとつだけ、これで憲法の改正は遠のいたのではないか。