「嘆きのピエタ」

knockeye2013-06-23

 この監督のこの前の映画「アリラン」の予告編を映画館で観たとき、「これはちょっと近寄れない」と思った。画面の圧力というか、こちらに思いを迫るねじ込み方がちょっと異質な感じで、草間彌生の絵を観るのと同じで、観客に挑んでくる。
 でも、ここで終わりなんだろうと多寡をくくっていたら、予想外の矢継ぎ早で、このピエタが発表された。しかも、ヴェネチアの金獅子賞まで受賞。こういう気持ちのいい裏切り方にはわくわくさせられる。
 知っている人には今さらだろうけれど、この人、貧しい山村の生まれで、9歳でソウル近郊に移ったあと、10代は、この映画の舞台、清渓川(チョンゲチョン)で、工場労働者として過ごしている。1960年の生まれだそうだから、70年代後半ということになる。
 以下、公式サイトのプロフィールをそのまま書き写すと

20歳で軍隊に志願し、過酷な海兵隊で5年間を過ごす。除隊後は障害者保護施設で働きながら夜間の神学校に通い、牧師を目指すと同時に、幼い頃から好きだった絵画制作に没頭。30歳でパリに渡り、路上画家として3年間を過ごす。当時パリで公開されていた『羊たちの沈黙』(90)、『ポンヌフの恋人』(91)などを観て、映画という映像表現に初めて出会い、衝撃を受ける。

 つまり、清渓川もピエタも、この人自身のアイデンティティーに根ざしているということがわかる。
 韓国がなぜキリスト教国なのかは、いつも不思議に思う。日本はまあ仏教国なんだろうけれど、仏教徒としてのわたしが、仏教の歴史を意識するときにも、インド、中国、日本、で、なぜか朝鮮半島は入ってこない。朝鮮半島の人々にとっては、中国が近すぎたのかもしれない。しかし、よくわからない。
 わたしたちの社会を‘母性社会’と評した河合隼雄によれば、キリスト教は父性の宗教、仏教が赦すとき、キリスト教は断罪する。キリスト教社会に母性を補っているのがマリア信仰だと書いていたように記憶する。
 ピエタはそもそも嘆きの意味なので、嘆きのピエタは重複なのだが、その嘆きはキリスト教の教義上どのような意味なのだろうか。罪のないキリストが人の罪を負って死んだのだとすれば、その嘆きは信仰の対象としては何なのか。
 それは選ばれた嘆きだろうか。わが子がいけにえとして選ばれた母親の、嘆きであり、恍惚だろう。母性というテーマ、それから贖罪というテーマは、この映画に色濃く反映されている。
 そうした宗教的なテーマが、清渓川という実在する工場街に具象化されているところがこの映画のユニークなところだろう。工場の機械は、そこで働いている人たちにとって、この世の掟そのものだろう。この映画の主人公はその代執行人として生きている。
 清渓川を‘空から眺めたことがあるか’とある男に言われて、ビルの外階段を上っていくシーンが印象的だった。清渓川が初めて俯瞰される。もうすぐ取り壊される小さな区域にすぎない。ほんとうは人は掟の外に出ることができるが、多くの人は掟の内側にとどまってしまう。 
 ラストシーンがその残虐さの一方でどこか美しいのは、文脈としてそれが解放を意味するからだろうと思う。
 グローバルなテーマでありながら自己の履歴にとらわれている、個人的でありながら普遍的だというような、こういう振り幅の大きい芸術家は、じつはそんなにいないと思う。

 ところで、昨日「スプリング・ブレイカーズ」について書いたことの付け足しなんだけれど、ジェームズ・フランコの、おバカかっこいい長ゼリフ、あれはたぶんアドリブだろうと思って検索したら、ELLEオンラインにアシュリー・ベンソンのインタビューを見つけた。やっぱりあれはアドリブだったみたい。あのシーンは最高。