「ローマでアモーレ」

ローマでアモーレ

 こないだキム・ギドク監督の「嘆きのピエタ」を観たBunkamuraのル・シネマはスクリーンが二つで、もう片方では、ウディ・アレンをやっている。「恋のロンドン狂想曲」がよかったので、この「ローマでアモーレ」も観にいくつもりにしていたのだが「でもない」みたいな前評判を聞きかじって、出鼻をくじかれていた。
 ところが、小林信彦のコラムでは、意味深長ながら、おおむね良好という評価のようだし、きのうたまたま入ったラーメン屋で週刊現代をめくっていると、井筒和幸も気に入ったみたい。
 じゃあ、間違いないんじゃん、ということで、遅ればせながら今日観にいった。
 「恋のロンドン狂想曲」は、出演者のほかに、これは今どきめずらしいナレーターが存在する映画だった。テレビドラマでは、竹内まりやがナレーションをやったりして、そんなに違和感を覚えないが、映画は2時間程度の短さでもあり、また、シーンや台詞が説明のためにあるのはしらけるわけだから、いきおい映画全体が象徴主義的に、さりげないシーンだったり、何気ないセリフだったりに語らせようとすることになる。
 でも、語りも別に禁じ手っていうわけじゃないことに、「恋のロンドン狂想曲」は気づかせてくれた。たとえば、竹内まりやの語りがあって、役者が芝居を始めるっていうあの味わいも捨てたもんじゃないんだし、それにもうひとつは、だれかが語る物語として映画を観るっていう楽しみに気が付いたわけだった。
 小説で言えば、ストーリーやキャラクターを楽しむことと同じくらいに、その作家の文体も楽しみに読むわけだから、そういう映画の楽しみはもちろんあったほうが何倍も楽しい。たとえば、これはウディ・アレンの映画なのだから、他のだれかではない、ウディ・アレンの文体を楽しむっていうことが、映画の楽しみを深くしてくれる。
 今回の「ローマでアモーレ」は、ウディ・アレン自身が出演している。ローマを舞台に、それぞれ独立した4つの物語が交互に進行していくのだけれど、みごとなのは、それぞれのパートが、まったく違う文体で語られていること。
 たとえば、「ライフ・イズ・ビューティフル」のロベルト・ベニーニのパートは、まったくのシュールレアリズムで、それに気が付いて、他のパートを見直すと、アレック・ボールドウィンジェシー・アイゼンバーグのパートは過去と未来が錯綜しているし、ペネロペ・クルスのパートはお色気コメディー、ウディ・アレンのパートは全くのナンセンスギャグ、と、これはまあ、今の思いつきでわたしが分類したにすぎないけれど、実際に映画を観る人は、そのパートごとに切り替わる、語り口の多彩さに気が付くはずだ。
 それだけでなく、それぞれのパートが、まったく関わりがないのかといえば、そうともいえないと思わせるのが、こころにくい。ロベルト・ベニーニのパートとウディ・アレンのパートは、じつは同一人物の後日譚なのではないかとも思えるし、アレック・ボールドウィンのパートとペネロペ・クルスのパートは、男と女のあれこれを、苦くとらえるか、甘くとらえるかの違いだとも見える。
 ローマを背景に、小さな喜劇と小さな悲劇が響き合っている。そして、繰り返しになるけれど、エピソードごとに絶妙に違う文体が、味わいを増している。‘時代を先取り’したオチも楽しいし、セリフのやりとりがしゃれていて、名人の落語を聞き終えたような満足感があった。
 まったく見当違いな比較をさせてもらうと、「クラウド・アトラス」。おそらく大金をつぎ込んだあげくに‘仮装大会’と、ニューズウィークでこき下ろされた、あの映画に足りなかったものがあるとすれば、このウディ・アレンの洗練されたセンスではないかと思ったりもした。