「さよなら渓谷」

knockeye2013-07-07

 吉田修一の小説が映画化されると、ちょっと気になるようになったのは、「悪人」が映画化されたときに、吉田修一自身がシナリオにコミットして、小説と違うラストに変更したということがあって、わたしは一読者として、あの小説のラストシーンには、ちょっと釈然としないところがあったので、映画のラスト(というか、小説のラストと対応するシーン)を見て、はじめて‘ああこういうことか’と得心すると同時に、‘けっこういつまでもうじうじいじくりまわすタイプなんだな’とおかしくもあって、それから、吉田修一作品の映画化というと、そうした‘淫する’感じを、どこかで期待するようなのだ。
 ここに、吉田修一と、主演の真木よう子のインタビュー記事があったが、吉田修一が自分の原作の映画を見て、一番驚くのは「せりふ」なのだそうだ。

 「俳優さんたちの声で聞くと、自分が書いたカギカッコの中の文章が、まったくニュアンスが違って聞こえたり、強くなったりする」
(略)
真木さんの「私たちは、幸せになるために一緒にいるんじゃない」というせりふを耳にしたとき、「書いたときの何十倍もインパクトがあった」
(略)
真木さんのそのせりふを聞いたとき、「ここを目指して、僕はこの小説を書いたんだと改めて思った」

そうだ。

「僕自身、これは、希望というか明るい結末だと思っていました。そうしたら真木さんがいうんです、『違うんです』と(笑)。真木さんが演じた女性は、この時期は人生の一部ではなく、まったく別の世界を生きている。だからこそ、かなこと俊介は一緒にいられたのだと。それを聞いたとき、本当にその通りだと思いました。

 オモシロイ原作者ですよね。
 吉田修一という作家は、うかつに答えに飛びつかないように、答えらしいものが見えている藪のまわりをぐるぐるぐるぐる回り続けているような、あるいは、吉田修一という作家にとっては、答えと問いは同じ価値で、ぼんやりとした問いとぼんやりとした答えの間を慎重に綱渡りしているような印象がある。
 一方で、今回の映画で言えば、新井浩文が演じたような、問いを捨てて、簡単に答えを手にしてしまう生き方もある(新井浩文は、「ぐるりのこと。」以来、ああいう役がはまりすぎてて、キャスティングとしてどうか?と思った。主人公とコントラストが出過ぎて、記号的に受け取られてしまう感じがした。「その夜の侍」のときのキャスティングがむしろよかったと思う。わたしが言いたいのは、つまり、あの役を妻夫木聡がやったらどういう印象になったかというようなことである)。
 ラストはオープンエンドになっている。先のインタビューで、吉田修一はこのラストが最大の見所だと言っていた。このエンディングをめぐっての、さっきの真木よう子吉田修一の意見の違いが、結局、主人公かなこと大西信満が演じる俊介の相克そのままかもしれない。
 あの後、俊介は何と答えたか。何と答えたにせよ、それを否定する答えが同じほどの強さで浮かんでくるはずだと思う。
 あるいは何も答えなかったのかもしれない。何も答えられないということが俊介の誠実のすべてであり、なんといってもそれがこの物語を成立させているすべてでもあるのだし。