「クラウド アトラス」

knockeye2013-03-24

 東京モーターサイクルショーはもうあきらめて「クラウド アトラス」を観た。
 週刊SPA!にトム・ティクヴァ監督とウォシャウスキー姉弟のインタビューが載ってて、パラバラとページをめくりながら、「あれ?なんだこの‘姉’って」、鈴木聖美的なことかしらと思ってたら、知らなかったんだけど、お兄さんが性転換したのね。
 それが頭の片隅に残っていたせいか、ベン・ウィショー演じる、男娼にして天才作曲家ロバート・フロビシャーがやけに生々しく感じられた。
 ロバート・フロビシャーのお尻に流星のかたちをしたアザがある。彼と若い頃恋愛関係にあった老ルーファス・シックススミスが、同じかたちのアザを、ハル・ベリー演じる、ルイサ・レイの肩に見つけるシーンは、三島由紀夫の『豊饒の海』第二巻「奔馬」を思い出させた。
 もっと近い感じをいうと、手塚治虫の『火の鳥』かも。さしずめ、あの猿田彦の役が、トム・ハンクスだと言っていいかもしれない。鼻の感じがなんとなく似てるし。
 この映画は過去から未来まで6つの時代にそれぞれの役者が、人種も人格もまったく別の役を演じる。で、これを観るときに輪廻という考え方を多少なりとも感じながら観ないとほぼ何のことだかわからなくなるだろう。ニューズウィークの映画評(どんな映画でもかならずくさす)を読んだが、「なんだこれ?仮装大会か?」みたいなことを書いていた。
 SPA!のインタビューにも輪廻に関するやりとりがある。それによると、ウォシャウスキー姉弟トム・ティクヴァ監督の三人は、リインカーネーションに、キリスト教の死生観よりリアリティを感じるといっている。
 それを信じているのかという質問に対しては、少なくともこの原作者は信じている、だから、自分たちもそれを信じるところから映画作りを始めたといって、その足がかりとしたのがエピクロスの思想などのギリシャの原子論だと。
 キリスト教徒がリインカーネーションを考えると、どうしても、そういう考え方になるみたいなのは、たしか、小泉八雲が、輪廻について肯定的に書いている文章も、結局原子論にすぎなかったと記憶している。
 でも、たぶんそれは仏教の唯識が教えている輪廻転生とは全然違うだろう。仏教徒は感覚的にそれは違うと思うだろう。かといってわたしもうまく説明できるわけではないが、仏教では、来世が‘有る’という考え方も否定する。つまり、輪廻を肯定することは同時に、現世、いま有ること自体に疑問を投げかけることで、仏教は、有ることと無いことを自明の対立項と考えないところにその特徴があるように思う。
 しかし、この映画の楽しみ方は、19世紀から未来社会まで、いろんな時代を舞台にしながら、腕のある役者たちが多彩な芝居を見せてくれるのを楽しんでみればよいのではないだろうか。
 SPA!のインタビューでも、結局、彼らが強調しているのはリインカーネーションの思想ではなく、姉のラナがいっているのは

 手塚治虫が「メトロポリス」にインスパイアされて「鉄腕アトム」を作ったように、そういう意味では芸術作品もリインカーネーションを繰り返している

ということで、「人間にとって芸術とは必要なものなのか?」が、この映画のテーマのひとつだと語っている。
 実際、さっき書いたようなこと、仏教の輪廻とキリスト教の死生観の違いといったようなことを、論理的につきつめていくと、悪くするとどんどん教条的になってゆく。そもそも論理ではないことを厳密に論理的に語ろうとすること自体が姿勢として退屈で、そういう退屈をいとわない人種は、学者として尊敬すべきだろうが、と、つまりこう考えてきたときに「人間にとって芸術とは必要なものなのか?」という問いが心に浮かぶわけだろう。
 この映画でも、本であったり、音楽であったり、映画であったりの芸術作品が各時代をつないでいく。たぶん、そっちがなかったら、ずいぶん味気ないことになっていたはず。ある意味では、芸術を信じるひとたちが、輪廻を体験する映画だともいえる。
 ところで、『豊穣の海』は妻夫木聡主演で、第一巻「春の雪」が映画化されたことがあったけど、あれもこういう風に四巻串刺しで撮ればどうだっただろうと夢想してみた。でも、むちゃですよね。

 わたしのいった映画館ではパンフレットが売り切れ。パンフレットが買いたくなる映画ですよね。