『the Path 〜 パルバディ・バウル 風狂の歌ごえ』

 存在だけは知っていた「ポレポレ東中野」って映画館に今回はじめて出かけたのは、この映画は、これを逃すと他でやらないかもしれないと思ったからだった。
 「パルバディ・バウル」の「バウル」の部分が一般名詞で、これは、「歌う托鉢僧」のようなものらしい。片手に「エクタラ」と言われる一絃琴、腰に「ドゥギ」と言われる小太鼓、足首に鈴のついたアンクレットをつけて歌い踊り、喜捨を受ける。主に南インドではよく見かけるらしい。監督の阿部櫻子さんもインド滞在当時、電車の中なんかでよく見かけていたそうなのだ。
 阿部櫻子さんがインドに留学していたころ、ルームシェアしていた少女がいた。カーストの最上位のバラモンとはいえ裕福ではなかったそうで、大学浪人のあいだ阿部櫻子さんとルームシェアしてもらっていた。ところが、帰国後、せっかく入った大学を辞めて「バウルになりました」という知らせが届いた。その後、彼女は世界公演まで行う最も著名なバウルになっていった。それが「パルバディ・バウル」である。
 この映画は、そんなパルバディ・バウルを彼女と旧知の仲である阿部櫻子さんの目線で描いた映画である。日本公演の様子もかいまみられる。
 バウルって存在を初めて知ったが、興味深いのは、それがヒンドゥーイスラムではなく、もしくはジャイナ教でもなく、どちらかというと仏教にシンパシーがあるらしいこと。
 いうまでもなく仏教はインド発祥の宗教だが、インドでは廃れているという印象だった。近年では、チベットを追われたダライ・ラマがインドに拠点を置いているってこともあるが、だからと言って仏教がインドで興隆しているってことにはならないと思う。
 それがこうした宗教ともなんとも言えない、最も民間的な、流浪の民の伝承のような形で息づいている。しかも、それが、一部とは言え、世界的に受け入れられ始めているってのが驚きだった。
 本来、インドは仏教が生まれた場所なので、国家というたがが緩んだ時代、土着的な宗教として仏教がまた息づくのかもしれない。
 もう一点は、彼女がバラモンであることだ。カーストって制度はそれこそ仏教以前からある古い慣わしで、それがインドの人たちにとってどういうものなのかはちょっと外からは計り知れない。
 インドでレイプが問題になっているらしいのも、実は、カーストが揺らいでいるせいだと聞いたこともある。あるいは、聞いたことがあると記憶を捏造しているのかも。有史以来の秩序が崩壊しつつあるとき、社会道徳が依って立つ社会通念を失っていると思うのだ。
 ひとつ言えることは、良きバラモンと言える人たちは、いわゆる「ノブレス・オブリージュ」ともいうべき社会に対する責任感を抱いている。
 パルバディが大学を辞めて、師を得て風狂の道に入るって選択は、実は、バラモンらしいとも言える。
 本編の中で、2度目の日本公演であるパルバディに「日本は変わった?」と聞くと「インドの方が変わった」と答える、その答えの中に、彼女が抱いている社会意識が見える。その同じ意識が彼女に選ばせたのがバウルという風狂の道だったってところが実に興味深い。
 上映後に、阿部櫻子さんとパロミタ友美さんというパルバディの弟子の人との対談があった。
 阿部櫻子さんは興味津々みたいで修行の内容について聞き出そうとするのだけれど、パロミタ友美さんは困っていたようだった。そりゃ無理なのだ。そもそも仏教は「不立文字」と(一発で変換が出てきて驚きだが)言って、言葉で何かを表すことはできない。し、そもそも言葉でそれを聞いたからと言ってそれでどうしようと言うのか。だからこその歌であるはず。
 土取利行さんの弾く沖縄の三線のリズムでパルバディさんが歌うシーンは感動的だった。土着的な何かが響き合っている。
 土取利行さんの亡くなった奥さんはずっと梁塵秘抄を音楽的に再生する活動をしていた人だそうで、パルバディさんの歌と合わせてその演奏を聴くと自然発生的なルーツミュージックの強さを思った。
 バウルの歌は、パルバディさん自身は師匠から聞いたものを書き留めているそうだが、多くの場合、文盲のバウルたちによって口伝されてきたものだった。
 現代人はである我々は、「よく憶えられますね」的なことを思うのだけれど、文字のなかった昔は、それが当たり前だった。われわれの世代には伝わると思うが、昔は、たくさんの電話番号を憶えていた。今では自分の電話番号以外知らない。これって古事記の編纂によく似ている。文字が普及したと同時に口伝の伝統は急速に失われたそうだ。
 バウルだけでなく、インドが今大きな時代の転換点にいる。その中でバウルは失われつつあるのか、勃興しつつあるのか、同時代で立ち会っている私たちにはそれすらわからない。そして、これが世界にとってどんな意味がるのかもわからない。しかし、その時代に立ち会っているってことだけは確かで、これだけは何物にも代え難い。
 グローバルと言うと、経済の面だけで語られることが多いのだけれど、社会が変化にさらされれば、私たち自身が日常は意識していない、有史以前のルーツまで、ひっくり返し、掘り返されざる得なくなる。
 その根っこは社会の隅々までどんな風に張り巡らされ絡み合ってるかわからないが、しかし間違いなく生きていて、愚かなひっくり返し方をすると目も当てられなくなる。例えば、日本の近代史はそういう一例だった。
 パルバディ・バウルが日本で公演する時は、寺院で行うことを好むそうだ。不思議なんだけど、彼女が歌うと、古めかしい寺院が別の息吹を息づいて見える。私たち自身が、実は何かの一部にすぎないということが思い起こされる気がする。
 
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