『ブリグズビー・ベア』

 サタデーナイトライブてふアメリカの老舗コメディ番組があり、そこに出演しているコメディアンたちが作ったパロディ映画。
 アメリカではどうなのか、少なくとも日本では、テレビと映画のあいだにはけっこう深い溝があるみたいで、テレビで慣れ親しんでいるコメディアンを映画で観て面白いかっていうと、テレビはテレビで独自に発展してきた様々なフォーマットと、それに対応する技術があるのに、それに気がつかないで、「あのテレビの感じでやってよ」みたいな生半可な感じで作り始めるとろくなことにならない。
 それは逆もまた言えることで、「寅さん」を面白いと思ったことがないと公言している松本人志が映画を作るとしたら、from scratch、文字通りゼロから作り始めなければならないわけで、そりゃ無茶。 
 だって、関西人ならわかることだが、シュールと言われるダウンタウンの笑いだって、吉本の笑いに関する膨大な教養からできているので、彼ら自身がゼロから作ったものなんてないに等しい。それでも『R100』レベルのものができるのだから逆にすごいのだけれど、でも、「ごっつええ感じ」のコントとどっちが面白いってったらどうなの?。
 関係ある話をするつもりで関係ないことになったが、アメリカでは日本よりもテレビと映画の断絶が大きくないのかなとか、それとも、日本から見てるからそう見えるだけで、アメリカでもテレビのコメディアンが映画で成功するのは難しいのかなとか、考えてみたわけだった。
 この『ブリグズビー・ベア』は、2015年の『ROOM』とか2016年の『10 クローバーフィールド・レーン』なんかの世界観があって成立するパロディだと思う。「もし、『ROOM』の主人公が〇〇だったら」っていうドリフのコントなのである。
 しかし、図らずも、なのか、意図的に、なのかわからないが、奇妙な同時代性を獲得してしまっていて、だからこそ海を越えて日本でも公開されるのだろうけれど、いちばん象徴的なのは、ルーク・スカイウォーカーマーク・ハミルが、誘拐犯のダンナで、これがまあ、掛け値なしにいい人。何しろ、妻が誘拐した子供のために『ブリグズビー・ベア』という架空のテレビ番組を作り続けてきた。こんな誘拐犯がいるわけないが、ただ、そう思うしりから再考してしまうのは、誘拐しない人は、フツーの人で、ホントにいい人は、誘拐しちゃったけど、誘拐した子に徹底的にウソのやさしさを貫く人なんじゃないかと、そう思った時点でもうこの映画の世界に迷い込んでいる。
 そもそも『スター・ウォーズ』について「アメリカ映画をダメにした」といった批判を聞かぬではない。一方で、今でも熱狂的に愛され続けているのも間違いない。マーク・ハミルとこの主人公の関係は、スター・ウォーズとそのファンたちの関係に似てなくもない。彼らは『スター・ウォーズ』に誘拐されたことに気がついていない。
 本当の両親は、主人公を『ブリグズビー・ベア』から引き離そうとするが、結局、『ブリグズビー・ベア』も含めて彼を愛することに決める。両親が教えようとする「楽しみ」は、確かに全然面白そうに見えない。両親を育てた社会は、マーク・ハミルの誘拐犯ほど熱心な教育者じゃなかったみたい。
 パロディとして上質で面白いが、しかし、この主人公に自己を投影できてしまう現代人って、はたしてどうなんだろう?。狼に育てられた狼少年に憧れるように、こんな境遇に羨望を感じられるとしたら、現代の社会の構造が、多くの人にとってウソくさくなりすぎているということなのかもしれない。