『ハドリアヌス帝の回想』

knockeye2012-09-28

ハドリアヌス帝の回想

ハドリアヌス帝の回想

 マルグリット・ユルスナールの『ハドリアヌス帝の回想』を読み終えた。
 須賀敦子の『ユルスナールの靴』を読んで以来読もうと思っていた本。
 作者による覚え書きから

 わたしが一九二七年ごろ、大いに棒線をひきつつ愛読したフロベールの書簡集のなかに見いだした、忘れがたい一句___「キケロからマルクス・アウレリウスまでのあいだ、神々はもはやなく、キリストはいまだない、ひとり人間のみが在る比類なき時期があった」。わたしの生涯のかなりな期間は、このひとり人間のみ___しかもすべてとつながりをもつ人間___を定義し、ついで描こうと試みることに費やされた。

 ハドリアヌスイェルサレムの長老アキバとの対面は、わたしには新井白石とシドッティを思い出させた。どんな宗教であっても、狂信者は愚と斥けるのが知性の態度だろう。考えてみれば、わたしたちの文化の根幹にある儒教や仏教がイスラム教やキリスト教のような啓示宗教でなかったことは喜ぶべきだった。
 国家神道などという啓示宗教は、そもそもその根拠も不確かだし、明治の官僚のでっちあげと断言していい代物にすぎないのだが、ともかく、そのもたらした結果の悲惨さは、そのお手本のたどった悲惨をみごとになぞった。
 にもかかわらず、いまだにそれに固執するものたちが多くいることも、じつは、狂信のもたらした悲惨の余韻であるにすぎない。天皇家が儒仏とともに享受した二千年の平和を、ユダヤ教徒がなめた二千年の辛苦と置き換えようとする行為を、どうして‘愛国’と名乗っているのかわけがわからない。
 しかし、これは例によってわたしのこころにうかんだ感想の断片にすぎない。
 この小説は、歴史小説によくあるような、実在の人物の声を借りて言いたいことをいうようなまがいものではなく、また、史実だけを列挙して、その実、下世話な偏見から一歩も外に出ないゴシップでもない。「完璧な声の肖像」、しかし、こうしてその実物を目の前に突きつけられるまではそれがどのようなものかわからないものだ。

 わたしはじきに、自分が偉大な人物の生涯を書いているのだと気がついた。それからは、真実へのいっそうの敬意、いっそうの注意、そしてわたしの側にはいっそうの沈黙が生じた。

 その沈黙は、献辞すら本文にはなく、ここにひいた「作者による覚え書き」にのみ寄せられているほどである。