盗まれた手紙

knockeye2013-02-04

 エドガー・アラン・ポーの小説に「盗まれた手紙」というのがある。
 くわしくはウィキペディアでも読んでもらえればよいのだけれど、なんでそんなの思い出したかというと、下記の事件。

 原子力規制庁審議官が日本原電の幹部に評価報告書の草案を渡していた。ちょっとヒントをほのめかしたとか、すれちがいざまに耳打ちしたとか、そういうんじゃなくて、白昼堂々、‘生’原稿を渡したんです。
 「あいさつのついで」とかいってるんです。でも、評価報告書の草案って、携帯の待ち受けとかとはちがうわけでしょ。ポケットに入らないでしょ。それをあいさつのついでにたまたま持ってたとは、そうとう運がいいんだけれど、運良く持ってたとしても、それ渡しちゃダメ、名雪哲夫、54歳。
 あまりにもあっけらかんとしているんでなんでもないようだけど、やってることは、暴力団に家宅捜索の日時を教えた警察官と同じでしょう。にもかかわらず、その処分が、出身省庁に戻るだけ。
 官僚天国とはこういうことなんでしょうけど、福島の原発事故は、‘人災’だと公式の報告書にも発表されましたよね。同じ津波に襲われても女川の原発はびくともしてない。つまり、あの事故の原因は、東京電力と規制省庁のなれ合いが主たる原因だったということで、改められた体制でまたそういうことする?
 だからもうダメだよね日本の官僚。前にも書いたかどうか忘れたけれど、そういう意味で、脱原発脱官僚なんですよ。その視点を曖昧にしたまま、原発全部即時停止みたいな非現実的なこといってるから、小沢一郎あたりにいいように利用されるんですよね。
 この記事、実際は、水曜日に書いてるんだけど、もうなんか古い話題にふれてる感じになってると思う。ちょっとスルーしすぎだと思う。こういう官僚は市民の手で処刑というようなこと行われたとしても、長い目で見ればポジティブに評価されるんじゃないだろうか。マリー・アントワネットをギロチンにかけて、それが革命の一幕にすぎないなら、こういう官僚の一家を惨殺しても、そういうことを悪と呼ぶのはセンチメンタルすぎる。すくなくともこのまま放置することと比べれば、相対的には善と呼ぶべきなのかもしれない。