Domani・明日展

knockeye2013-02-08

 日曜日、国立新美術館で「Domani・明日展」という展覧会を観てきた。「未来を担う美術家たち」という副題がついていて、さらに()のなかに「文化庁芸術家在外研修の成果」とある。ようするに()の中まで読んで‘ああそういうこと’と納得できる、もってまわったいいまわし。
 ところで、国立新美術館は、‘the National Art Center’という英語表記になってますね。所蔵品のひとつももたずにさすがに‘Museum’は名乗らないみたい。
 ‘Museum’は、ちょっとその存在自体が、曲がり角にさしかかっているというか、あり方が危うくなりつつあるかなという、そんな思いが、この展覧会を観ていてふと兆した。
 それぞれの作品はどれもそれなりの表現をものにしていると思うけれど、じゃあ、これが美術館以外のどこで成立するかといえば、どうなのかしらむということ。
 美術館という金魚鉢に、最初は川で泳いでいたメダカを入れて眺めていたのが、しだいに品種改良されて、金魚鉢でしか生きられない金魚が愛でられるようになる。
 それはそれでいいけど、でも、どうでしょうね、沖縄の海にスキューバダイビングなんてことが別に珍しくもない時代には、金魚鉢の意味は変容しますよね。
 たまたま部屋に、川久保玲が銀座で始めた「ドーバーストリートマーケットギンザ」の記事が載ってる雑誌が置きっぱなしになっている。
 これと、今日買って帰った展覧会の図録を見比べてみて、どっちがスリリングなんだろうとか考えると、意外にむずかしいんじゃないかなと思う。
 美術館が何を展示するか、さっきのたとえを引き継ぐと、どんな川に魚を捕りに行くかを考えると、その川がわくわくさせる川でなければ、やはりだめなんじゃない?
 そういう意味では、川久保玲もそうだけど、草間彌生大竹伸朗村上隆、といったひとたちがやっている美術館の外側をまきこむ動きが、やはりわたしはおもしろいと思う。
 ま、それはそれとして、行武治美のガラス造形と、橋爪彩のフォトリアリズムみたいな油彩がよかった。それから糸井潤の写真は、ワタリウム美術館で観たのを思いだした。塩田千春の作品は、展示されているのはそんなでもなかったけど、図録に紹介されている「沈黙から」、「夢の後」はすごい感じ。



 同時開催の「アーティストファイル2013 現代の作家たち」も観てきた。
 中澤英明の「子供の顔」っていうシリーズがあるんだけど、これは‘茶入’だと思った。