アンドレアス・グルスキー展

knockeye2013-07-27

 今日は出勤だったので、まだ書いていない展覧会について。気が付いたけど、夏は、美術館のはしごより休日出勤の方がカラダが楽。
 国立新美術館アンドレアス・グルスキーの写真展。

 この展覧会には、ちょっとした仕掛けというかいたずらというか、作品名を記したプレートが作品の近くになく、微妙に離れた位置にある。作品は大画面なので、観る側としては、まず、作品の印象がバーンときた後に、「えーっと・・・」という感じで作品名を探すことになる。無題が多い。
「えーっと・・・」「無題」
というパターンが多い。
 笑ったのは、ジャクソン・ポロックの絵を大写しにした写真があって、そのタイトルが「無題」。
 「いやいや、ポロックだろ・・・」
とおもいつつ、もしポロックであろうとなかろうと、写真のタイトルは「無題」で正しいと気づかされる。。
 上に上げた写真などで明らかなように、パンフォーカス、画面全体に焦点があっていて、プレーンで中心のない構図の写真が、こちらに伝えてくるのは、フラットな世界である。
 画面全体のどこをとっても等価であるだけでなく、全体と部分さえ等価で入れ替え可能なのだ。
 これは、洛中洛外図や犬追物図の世界だ。見るものは、部分と全体を自由に行き来できる。

 あるいはブリューゲルの世界。

 世界はフラットになりつつある。
 ‘国家’という価値も、‘自由’という価値も、絶対的な価値ではなくなり、交換可能な価値になりつつある。世界の価値観が中世に揺れ戻りつつある。
 「中世」とおおざっぱに書いたけれど、どの地域のどの時代を厳密に意識したわけではなく、「朕は国家なり」といった中央集権的な国家中心の時代‘以前’を漠然と思っただけ。
 たとえば、ハプスブルグ家が国家を横断していた時代だったり、ザルツブルグとかハンブルグとか、都市の持つ意味が今よりずっと大きかった時代だったり、東大寺の建立にペルシャから人が訪れていたり、そんなイメージ。
 米ソ対立の時代は、一応、西洋近代史の文脈に位置づけられた、思想的な対立でもあったわけである。しかし、アメリカと中国が、対立さえせず、並列で共存する時代とは何なのか。中国は、民主主義ですらなく、キリスト教世界でもなく、白人社会でもない。西洋史の文脈にまったく存在していなかった国なのだ。イスラムや日本は、その意味では、たしかに西洋史の中に位置づけられていたと考えられる。
 アメリカと中国が平気な顔で同席していることは驚くべきことなのだ。そういうときに‘愛国’とか、いかにピント外れか。正しい、間違い、善い、悪い、以前の問題で、まったく見当違いなのだ。
 国の垣根が低くなり、宗教や民族の縛りが相対的になる時代にわたしたちは生きている。むしろ風通しがよいと思う。