白髪一雄展みました

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白髪一雄《游墨 壱》

 オペラシティ・アート・ギャラリーで白髪一雄の回顧展が始まっている。
 白髪一雄とジャクソン・ポロックは比べたくなる。ジャクソン・ポロックは、天井から吊るした絵具の缶の底に穴を開けていた。一方、白髪一雄は、天井から吊るしたロープに捕まって足で描いていた。これ以上大胆な筆触はたぶんないだろう。

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白髪一雄《游墨 壱》部分

 アル中の治療として絵を描いていたポロックは、自分の絵画に確信をもてずにいた。自分の作品を前に「これは絵なのか」と呟いたことがあったそうだ。無意識に描いたものを自分の作品と言えるか確信が持てなかったと思う。晩年の「ブラック・ポーリング」などには、白い絵具で修復した跡などあって痛々しい。
 白髪一雄の伸びやかな筆触は、最後まで失われなかった。でも、作品のタイトルを「無題」とか「作品」とかで放り出す冷徹さは持てなかった。タイトルには意味ありげな漢字が並んでいる。
 なかでも、水滸伝の英雄たちの名前をタイトルにしたシリーズは、絵の圧倒的な迫力にそのタイトルがふさわしいのかどうか疑問に思う。《天異星赤髪鬼》、《地察星青眼虎》など。明らかに水滸伝を描いていないのに、こうしたタイトルをつけてしまうと、水滸伝を描いたかのように思われてしまう。具体美術協会の主宰だった吉原治良は、タイトルをただ作品とすることにこだわりがあっだそうだが、白髪一雄はこういうタイトルの付け方をしていた。
 白髪一雄もポロックと同じように、意味が欲しかったんだと思う。後には、密教に傾倒して僧侶にもなった。
 白髪一雄は、しかし、ポロックよりずっと長生きして描き続けた。晩年には、フット・ペインティングに回帰した。白一色とか群青一色とか、単色の作品も多くなる。意味を脱することができたんだと思う。上に掲げた《游墨 壱》は、むしろ晩年の作品。
 ポロックも、まだ若い歳で事故で亡くならなければ、スランプを抜け出すことができたかもしれない。初期の名作だけで充分だけれど。
 白髪一雄の場合、事実上、奥さんと共同作業だったこともよかったのかも。具体美術協会の仲間、田中敦子元永定正からも刺激を受けたと思う。
 尼崎市総合文化センターには、白髪一雄記念室があるそうだ。

白髪一雄記念室 -Kazuo SHIRAGA - 尼崎市総合文化センター