谷文晁

knockeye2013-08-04

 金曜と土曜のサントリー美術館は8:00PMまで開館しているので、谷文晁展の後期を観にいった。前期も先月観にいっている。
 前期だけの展示だったけれど、なんといっても、木村蒹葭堂のこの肖像が魅力的。

 笑福亭鶴瓶藤田まことをかけまぜたようにも見える。ふところの深さと、眼力の鋭さ、人柄が伝わる名画で、蒹葭堂の没後、生前描いていた素描をもとに描き上げて遺族に贈った。
 蒹葭堂については、田中優子の著書で知っているだけだけれど、今で言うと、ジブリ鈴木敏夫とかなんだろうか。吉田健一が、江戸時代には日本にもたしかに社会があった、と言っていたのを思い出させる。
 当時、江戸の谷文晁人気はすごかったらしく、図録によると、天保のころ
「この頃のはやりもの 画師は文晁 詩は五山 料理八尾善きんぱろう わたしゃひら清がよいわいな」
という小唄が、芸妓のあいだで流行したのだそうだ。
 26歳のときに田安家、日本史の授業で習った‘御三卿’、清水、田安、一橋の、あの田安家に出仕、これは、父親が田安家お抱えの漢詩人だった縁もあるだろうが、30歳のときには、松平定信付きとなっている。
 松平定信といえば、これまた日本史の授業で習う‘寛政の改革’のあの松平定信で、「白河の清きに魚も住みかねて もとの濁りの田沼恋しき」と狂歌に歌われた、事実上、当時の最高権力者だが、そのお抱え絵師となると、どう思って良いやら、なかなか複雑な気持ちになる。
 というのも、鈴木春信と協力して錦絵をつくりあげた平賀源内が、田沼意次とつながっていたことはほぼ間違いないので、田沼の仇敵である松平定信は、あまりいい印象とはいえない。もっとも、わたしが田沼意次や平賀源内をひいきにするのは、子供の時に見た、黒鉄ヒロシ原作のNHKドラマ「天下御免」の影響だろうと思う。あのドラマで仲谷昇の演じた田沼意次はなかなかかっこよかった。それから辻原登の『花はさくら木』。
 政治の方でも、田沼意次の進歩的な商業政策に対して、反動政治家という印象が今は強いようである。今のわたしたちは、この「改革」の70年ほど後に徳川幕府が瓦解することを知っている。松平定信の没後でいえば、ほぼ40年後、谷文晁の没後30年もたたずに明治になる。
 さらにややこしいのは、谷文晁の弟子、渡辺崋山蛮社の獄にからんで切腹。サイドストーリーがハデすぎ。
 画風は千変万化だが、蘭学を廃したはずの定信のお抱え絵師としては意外なほど蘭画の影響が色濃い。図録の表紙に使われている自画像は、これは文字通りシルエットに見える。横向きの影絵で自画像を描いただけなのかもしれないけれど。

 定信の命をうけて集古十種という書物をものしているが、このとき日本各地の文化財を調査して歩いて名画を模写する機会をえた。
 面白いのは、石山寺縁起絵巻を模写しただけでなく、ここでも、各巻の画風を自家薬籠中のものとし、詞書きだけしかない巻に絵を足して、絵巻を完成させている。

 石山寺と言えば、紫式部がここで源氏物語を書き始めたという伝説のある寺だけれど、その縁起絵巻が江戸後期にようやく完成したというのはなんだか不思議。
 一説には、絵師としての年収が千両をくだらなかったという、この人の人気は、その情報の網羅性、広さにあったのかもしれない。当時、江戸の人たちは未知のものや他の世界に、知的に餓えていたのかもしれない。今のわたしたちは、江戸という閉じた安定した社会にとても憧れるけれど。
 「文晁の好きは晴天、米のめし、勤めかかさずいつも朝起き 文晁のきらひ雨降、南風、わからぬ人に、化けものはいや」
‘文晁が好き嫌いの句’という文晁自詠の狂歌は、広く知られていたそう。