東京都現代美術館に行った。
「フランシス・アリス展」を観にいったつもりだったのだけれど、同時開催されている
「手塚治虫×石ノ森章太郎 マンガのちから」
にちから負けした感じ。
だって、
これですから。
これですから。
これですから。
イメージの力強さが圧倒的なんですよ。ほとんど暴力的とも、悪夢的といってもいい。こないだリメークされた映画版の009は、石ノ森章太郎のオリジナルにくらべるとどうにもしょっぱい。実写にすり寄った分、絵としての力がへにゃへにゃなのだ。この原画の髪型、目鼻、マフラー、足の、圧倒的なオリジナリティーを見てよ。
鉄腕アトムの「地上最大のロボット」の最終回、手塚治虫の原稿が展示されていたけれど、アトムがブルートの折れたツノを手に、片ひざをついているカットが、すでに名画なんです。手塚治虫があのワンカットを描きえたことこそが、その後、日本のマンガをアートの最先端へ高めた事件の発端だと思う。
常設展のブースに、「わたしたちの90年 1923−2013」という展示がある。なぜ100年ではなく90年かといえば、90年前の大正12年が関東大震災の年だから。展示は、鹿子木孟郎の<大正12年9月1日>という絵から始まる。
阿部展也の<神話 A>
は、大震災から軍国主義の時代へと続くわたしたちの国の苦悩をまさに神話として提示している。
清水登之や杉全直などの従軍画家の絵もあり、先日、東京国立近代美術館で見た戦争画の数々(藤田嗣治の<血戦ガダルカナル>や、北蓮蔵の<提督の最期>など)を思い浮かべたりした。
つづく70年代のタイガー立石、中村宏、
そして、会田誠と大岩オスカール。
これは、会田誠の<美しい旗(戦争画リターンズ)>
こうして、関東大震災直後から現代まで日本の絵画芸術を、人間の身体表現を通して概観してみたとき、そこに、戦争、一般的な戦争ではなく、具体的なひとつの戦争、太平洋戦争にまつわるディテールが、実はその源泉としてあると見ることができる。
実際、会田誠は、「戦争画リターンズ」シリーズを書き始めた動機として、「ノスタルジーのようなセンチメンタルなようなもの」と同時に「『今』を作ったもっとも近い、もっとも大きな原因」を描きたいとも言っているそうだ。
戦争画がノスタルジックでセンチメンタルだと感じられるとすれば、それは、善悪以前に、わたしたちの身体的な記憶につながっているからだ。たしかに、会田誠の「戦争画」は、イデオロギーを嘲笑している。しかし、藤田嗣治の戦争画にも、そもそもイデオロギーなど存在していたか。画家はイメージを捉えているだけなのだ。滑稽なのは、絵画にイデオロギーしか見ることができない貧弱な精神の方ではないか。
そしてもう一度、手塚治虫の鉄腕アトムに戻ってみたら何が見えるか。実は、ここに描かれているものこそ、イデオロギーやプロパガンダを排除した、身体にとっての戦争と、卓越した身体表現であることに気づくだろう。
アトムは、パンツとブーツだけを身につけた少年で、しかも、ロボットという不滅の肉体であり、正義の子として闘う。そのアトムが、破壊されたブルートの巨大な黒いツノを片手に、いつかロボット同士が争わずに済む時代が来るといいのにと願うのだ。白馬にまたがったナポレオンはわたしにとってはすでに滑稽だが、このアトムには涙ぐまざるえない。
この戦争と身体の表現は、石ノ森章太郎の仮面ライダーにも、キカイダーにも、円谷プロのウルトラマン、タツノコプロのガッチャマンなどなどに、一貫して引き継がれている。
わたしたちの身体は、イメージの中ではとっくに鉄腕アトムであり、仮面ライダーなのだ。タマラ・ド・レンピツカが、実際には所有していない緑のブガッティに乗る自画像を描いたように、機械はすでにわたしたちの身体表現なのである。ギリシャ彫刻のトルソを美しいと思うように、わたしたちはクルマやバイクを美しいと感じる。そうしてわたしたちのイメージが機械をとりこんだ以上、美の表現も拡がらざるえない。そして、機械文明が美術に与えた影響として、表現にとってはもうひとつ、テクニックの側面から映画が加わる。
このように関東大震災から現代までの90年を概観したとき、その美術の文脈に、宮崎駿の「風立ちぬ」がどれほど驚嘆すべき達成であるかが分かると思う。ゼロ戦が美しいように、鉄腕アトムが美しいように、「風立ちぬ」は美しい。こうして、あの「風立ちぬ」というアニメは、ある境界を越えていっただろうと思う。