『マス・イメージ論』

knockeye2014-03-29

マス・イメージ論 (講談社文芸文庫)

マス・イメージ論 (講談社文芸文庫)

 じしんの詩的な体験から云ってみれば<現在>が現在にはいるにつれ、いつの間にかいままでの詩法にひっかかる現実がどこにも見当たらない。そういう思いにたどりついた。それでもじぶんの詩法に固執すると、どうも虚偽、自己欺瞞の意識がつきまとう。じぶんの詩法でひっ掻ける世界が、実際どこにもなくなってしまったのに、無理にひっ掻く所作の姿勢をつくることに、空虚さをおぼえてくる。(詩語論)

という、吉本隆明の危機意識を、1980年代のそのころ、どれくらいの人が共有していたのかしらないけれど、わたしなんかだと、2014年の今読んで、ちょうどその感じがわかるくらいだ。それもおぼろげに。
 単行本のあとがきにはこうある。

ただ最小限はっきりしていたことは、生のままの現実をみよ、そこには把みとるべき「現在」が煮えかかっているという考えにだけは、動かされなかったことだ。生のままの「現在」の現実を、じかに言葉で取扱えば、はじめから「現在」の解明を放棄するにひとしい。そのことだけは自明であった。

 「喩法論」に三人の女流詩人の詩を引いているけれど、とりあえず望月典子の「近況報告 1」より

あたしは今日から 毎晩
出掛ける
万がいち 楡の樹みたいないい男
をつかまへられたら きっともう
コケティッシュなんてものぢゃなく
よがり泣きにむせぶだらうけど


あんたももし 発情期
なら ほら駅向う
へ行って あんたのよく話す
いい女
と寝て来てよ
寝て来るべきだ ほんとのところ


いまは 季節
せっかくのこの時期を あんた
みたいな男のために
眼あけたままで 両脚
ひろげて
やりすごしたくはないんだよ


隣の猫はこのところ
毎晩毎晩家をあけ
あたしはますます苛立つ
ばかりだ

そして吉本隆明はこう書いている。

 すぐにわかるように、うわべだけでは喩法といえるほどのものはどこにも使われてない。むきだしの自己主張の言葉が、エロスの願望に沿って、つぎつぎ押しだされているだけみたいにみせている。だがほんとうはそんな単純な願望の表白ではない。そうみえるのは、これらの女流が、ひとりでに無意識の自動記述を身につけているからで、言葉はとても強い選択をうけている。するとこのむき出しの自己表白のようにみえる詩片の接合から、全体的にひとつの暗喩をうけとることになる。そうしなければこれらの詩を読んだことにならない。あるいはべつのいい方をしてもいい。このむきだしの自己主張の羅列のようにみえる言葉を、全体的な暗喩としてうけとる視角の範囲に、現在というものの謎がかくされている。

 鹿島茂の文庫本解説は、この喩法論に着目して、「すなわち、暗喩こそが『マス・イメージ論』という論考において吉本が採用した最終的な方法論であり、」「この『喩法論』は『マス・イメージ論』で吉本が用いたさまざまな『・・・・論』を内側から解き明かす『方法の方法』となっている」と書いている。そして、次の一説を引用している。

わたしたちはここで、全体的な喩の定義を、言葉が現在を超えるとき必然的にはいり込んでゆく領域、とひとまず決めておくとしよう。喩は現在からみられた未知の領域、その来るべき予感にたいして、言葉がとる必然的な態度のことだ。

 たしかに鹿島茂のいうように、‘全体的な喩’として、感覚的にとらえなければ読み進めない箇所も多い。しかし、旧来の文学的な態度が金属疲労を起こして、現在の現実と乖離してしまっている、という問題意識を、著者と共有しながら読み進むかぎり、表現として喩でありながら、その言葉から少しでもずれれば、伝わらない正確な表現だと思う。やすやすと他の言葉に置き換えるわけにいかない。
 付箋を貼りながら読んだけれど、付箋のところを拾い読みすると、そこからまた、章全体を読んでしまう。
 でも、次のような問題意識に反応する人であれば、わかるわからないに関係なく、受け取るものがある本だと思う。

 どうしてかれらは(いなわたしたちは)非難の余地がない場所で語られる正義や倫理が、欠陥と傷害の表出であり、皮膚のすぐ裏側のところで亀裂している退廃と停滞への加担だという文学の本質的な感受性から逃れていってしまうのだろう? かれらを(わたしたちを)古き懐かしき日々への回想でしかない思想の図式的な光景へゆかせる退化した衝動が、現在、倫理の仮象をもってあらわれるのはどうしてなんだろう?

 しかし、この問題意識は‘部分’であり、‘一面’なのだろう(私はたぶん2014年の今に引き寄せてここを読んでいる)。こうした問題があり、解答がある、というだけなら、まだ簡単なのだけれど。