詩人で展覧会を開けるのは、まず、谷川俊太郎くらいのものだろう。東京国立近代美術館で吉増剛造展ってのは観たし、面白かったが、よく言えば実験的、私の勉強が足りないってだけのことだが、悪く言えば難解だった。たしかに今回の谷川俊太郎展と吉増剛造展「声ノマ」と比べてどちらが刺激的だったのかと言えば、吉増剛造の方は、あえて美術館で展覧会を開くことに確信犯的であるわけだから、それは吉増剛造の方だと言えるのだけれど、たとえば、鉄腕アトムの主題歌
空を超えて ラララ 星の彼方
行くぞ アトム ジェットのかぎり
こころやさし ラララ 科学の子
十万馬力だ 鉄腕アトム
って歌が展覧会場に流れていると、その説得力は良くも悪くも圧倒的なのである。昔、泉谷しげるがカバーしたりしていた。
しかし、日本の詩とは何かは、けっこう難しい。とくに近代詩はそもそも翻訳からはじまったわけだから、はじめから形式が存在していない。それなのに、これは詩です、これは詩じゃなくて散文ですって分けてることがすでに何か変は変なのだ。
たとえば、ペトラルカは、須賀敦子によると、言葉をまるでレンガのように緻密に考えて積み上げているそうなのだ。漢詩もそう。でも、日本の場合、最初からそうした形式が存在しないのに、書く側だけでなく、読む側も詩と詩じゃないものを分けていて、そして、けっこう愛唱されている詩もある。
形式がないのに詩があるとすれば、詩は形而上的なものになるしかない。自身詩人でもある吉本隆明は、『最後の親鸞』の序であったかあとがきであったかに、それを「一編の思想詩」に喩えていたし、個人的にもそう読んだ。というのは、山折哲雄が評したとおり、内容はほぼ浄土真宗の「正統的な」教義そのものであるが、でも、それをあれほど魅力的に語った本はそうザラにないと思うからだ。
ペトラルカの詩が翻訳不可能だとすれば、その理由は、形式にではなくて言葉にある。林檎とAppleはモノとしては同じだけれど、言葉としては違う。翻訳詩から出発したかぎり、私たちはそのことを知っている。
「はじめに言葉ありき。言葉は神とともにありき」と言うけれど、神は林檎のようには存在しないのだとしたら、神は言葉としてあるだけである。にもかかわらず、神とGODが同じだとしたら、神は存在するしかない。
言葉があるかぎりそこにあるしかない。そんな風に詩もあるのだと思う。