マルセル・ブロータースから始める

knockeye2014-05-11

 東京国立近代美術館(竹橋にあるやつ、代々木上原で乗り換えるまで、頭の中では清澄白河に行く感じになってた)に「映画をめぐる美術 マルセル・ブロータースから始める」を観にいった。
 他の人のブログなどを読んでも、また、今までの映像作品を観た経験から推しても、時間がかかるのはわかってたので、今日はこれひとつのつもりで出掛けた。
 美術館で、スクリーンに映写されたり、モニターに映し出される、動画作品を観ることが珍しくなくなったし、ふりかえってみても、面白かったよなと思いだす作品もいくつもある。
 たとえば、ジョン・ケージの「4分33秒」の演奏風景をマノン・デ・ブールが撮影した「二度の4分33秒」とか、サイモン・フジワラの「岩について考える」とか、フィオナ・タンの「Cloud Island」とか。
 もっと遡れば、ナム・ジュン・パイクとか、オノ・ヨーコにまでたどらなければならないのかもしれない。
 しかし、素朴な疑問というか何というか、映画そのものと、これらの映像美術はどう違うの?、つう疑問について、どう答えを出すべきなのかな。
 たとえば、宮崎駿は、ジョン・エバレット・ミレイのオフィーリアを観て、「自分が目指しているものをとっくの昔にやった人がいる」と語っているわけだし、実際のところ、観客としての私は、宮崎駿の映画を観ることと、美術館で絵を観ることの間に、違いがあると思わない。
 今回の展覧会は、シネコンスタイルに構成されていて、マルセル・ブロータースの映像作品が展示されている部屋をシネコンのロビーに見立て、そこからいくつかの‘スクリーン’に、タコ足状に通路が配されている。ますます映画っぽいのだが、ピエール・ユイグの「第三の記憶」なんて、アル・パチーノ主演の「狼たちの午後」の、モデルになった銀行強盗本人に、当時の出来事を再現してもらっている。
 そうなると、今、話題になっている「アクト・オブ・キリング」を、どうしても思い出してしまうわけで、逆にいうと、映画って何なんだったっけ?、つう疑問も浮かんでくる。
 つまり、ここでは、通俗芸術と純粋芸術の壁が、残骸程度にまで崩壊しているわけなのだが、そんなもの崩壊していても、特に痛痒を感じない、ただただ面白いものを探して歩き回る一観客ではあるものの、この疑問は案外、根深いんじゃないかと心の片隅にもやもやしていたことは事実だった。
 面白かった作品を列挙してみる。
 アンリ・サラの「インテルヴィスタ」。アルバニア出身の作家で、社会主義国家建設に積極的に携わった実のお母さんにインタビューしている。このお母さんが実に明晰で魅力的。社会主義が崩壊した今だからこそ、言葉とプロパガンダの違いが、すごくよくわかる。
(面白いんだけど、ここで私が感じているおもしろさって何なんだろう?、とどこかで引っかかりながら面白がっている。)
 アナ・トーフの「偽った嘘について」。これは、白黒のスライド作品で、これは、ジャンヌ・ダルクについての詩画集だろう。
 エリック・ボードレールの「重信房子 メイ 足立正生のアナバシス そして映像のない27年間」。これは、テレビのドキュメンタリー番組か、映画のためのスタディーのようなもの。
 田中功起「ひとつの詩を五人の詩人が書く(最初の試み)」。これは、テレビで言えば、ヴァラエティー番組の企画だと思う。
 こうしていくつかあげただけでも、絵としてだけでなく、文学作品の要素、ドキュメンタリーの要素、映画の要素、が含まれている。
 これを「総合芸術」と呼んでいいかどうか。たしかに商業映画には「総合」と言える一面がある。文学、演劇、音楽、絵画のテクニックを一つの効果に収斂していく。それを「総合芸術」と考えるなら、ここにあるものは、スタディーに見えてしまう。というのは、もし、ある芸術のジャンルが、ある形式を指すのだとすれば、ここにある作品のほとんどは、まだ形式を確立していないからだと思う。