シドニー・ルメット監督が、ドラマとメロドラマの違いについて、ドラマのストーリーが登場人物から派生しなければならないのに対して、メロドラマの場合、「ストーリーの要求に登場人物たちが合わせなければならない」、登場人物は「ストーリーを正当化するものを提供する存在なんだ」と語っていた。
朝日新聞の虚偽報道の、その内容については、とっくに知っていたことなので、今さら驚きもしなかったが、それよりも、虚偽報道の‘コンフェッション’を受けて、「吉田証言が虚偽だったとしても、‘今さら’、慰安婦問題の全体像は変わらない」といった論評が多いことを懸念している。朝日新聞の木村伊量社長自身が「歴史的事実を変えることはできない」と語っているそうだ。
先に「歴史的事実」というストーリーがあって、「ストーリーの要求」に登場人物たちを従わせようとする結果、このような虚偽報道が生まれるのではないのか。慰安婦問題にかぎらず、どんな問題でも、全体像が細部の先にあるなどということはありえない。
細部の積み重ねの結果として、全体像が見えてくる。当然、新たな細部が発見されれば、全体像も変わることになる。全体像は常に変わり続けるのであって、今回のように大きなデータの差し替えがあった場合、全体像が影響を受けないわけがない。
細部がどれだけ変わっても、全体像が変わらないとすれば、その全体像はすでにイデオロギー化している。
週刊文春(橋本聖子と高橋大輔がキスしている号)の記事によると、朝日新聞の検証記事では「当時は研究も乏しく、挺身隊と慰安婦という言葉が混同されていた」と釈明しているが、東京基督教大学の西岡力によると、七〇年代まで、学会では、慰安婦と挺身隊は混同されていなかった・・・「実際の経過は逆で、朝日の報道によって学説が影響を受け、変更されてしまった」という。
ということは、韓国の‘挺身隊問題対策協議会’という団体も、その存在の根拠を朝日新聞の虚偽報道においているということにならないだろうか。96年に国連に提出されたクマラスワミ報告書や、07年に米下院でなされた対日非難決議でも、吉田証言が有力な論拠とされたそうなのだ。
慰安婦問題の全体像というが、神様以外のいったい誰が、そんな全体像を知りうるだろうか。今、世界中の人たちが思い描いている‘慰安婦の全体像’というそのイメージは、まさに朝日新聞が作ったものだといえるだろう。
そもそも戦争犯罪に時効を設ける必要はない。元慰安婦の方たちには、謝罪も補償もするべきなのであって、それをしたからといって、大多数の日本人は異を唱えないだろうと思う。しかし、個々のケースの裏付け調査なしに謝罪も賠償も行いようがなかったのは当然だった。
河野談話の再検証で明らかになったのは、日本側と韓国側の間にあったのは、まさに「慰安婦問題の全体像」というイデオロギー対立だったということだ。
元慰安婦の方たちの名誉を回復するのに有用なのは、そうしたイデオロギーなのか、それとも、個々の裏付け調査なのか、それはいうまでもないように思う。ただ、そうした裏付け調査の結果は、日韓両国の国家主義者たちを満足させないだろう。なぜなら、個々のケースに踏み込んでいけば、どちら側の全体像にも都合の悪いケースがあることは目に見えているからだ。
日韓の違いによらず、こうした全体像にこだわる人は、個人を踏みにじることになるのは、昨日紹介した朴裕河のケースに明らかだ。慰安婦問題について書き始めた最初の頃にふれたが、村上春樹の「卵と壁」のたとえで、この慰安婦問題にあっての「卵と壁」は、そう単純ではない。自分が壁の側に立っているか、卵の側に立っているか、注意深く考えるべきだろう。