「フリーダ・カーロの遺品」

knockeye2015-12-02

 時期が前後するのだが、アミュー厚木の映画.comシネマで「フリーダ・カーロの遺品」てふ映画を観た。実は、この映画も、この夏、シアター・イメージ・フォーラムで封切られたものだった。
 日本映画の、よく言えば、手づくり感、悪く言えば、金欠ぶりは、「日本映画ブーム」みたいのが、フランスだの、どこやらだので起こったとか、耳にするようになっても、あまり変わらないようで、先日の「氷の花火 山口小夜子」もクレジットの最後に「春風亭昇太」の名前が出てきて「?」と思ってたら、なんか松本貴子監督が、春風亭昇太の大学の後輩とかで、制作費をちょっと(じゃないかもしれない、心なしか、写真の顔が青ざめている)出してもらったそうだ。
 この「フリーダ・カーロの遺品」も、監督の小谷忠典が、写真家の石内都の映画を撮りたいと思って、彼女に電話をかけたら、その2週間後に、フリーダ・カーロの遺品を撮りに、メキシコに行くところだったのだそうで、その2週間で、八方手を尽くして、なんとか渡航費だけ工面して、付いてったんだって。
 体当たりというか、場当たりというか、突撃取材的なエピソードなんだが、にもかかわらず、宿命的なのは、小谷忠典は、石内都の「scars」という写真集にインスパイアされた、娼婦のキズをモチーフにした「LINE」という、映画でデビューしている。一方、フリーダ・カーロは、6歳の時に、小児麻痺という障害を負っただけでなく、18の時に、乗っていたバスが交通事故を起こし、金属のパイプがからだを貫通する怪我を負って、生涯、痛みに苦しみ続けた。そういう痛みの感覚をたよりに、このひとたちは出会っているように見える。
 フリーダ・カーロの遺品といっても、なにか唐突だが、彼女の夫だった、ディエゴ・リベラ(この人自身もメキシコを代表する画家で、レオナール・フジタとはパリで親交があった。フジタはメキシコに彼を訪ねて、その壁画に感銘を受けている)が、彼の死後、15年間は「バスルームを開けないでほしい」と遺言した。彼の後見人だったオルメド婦人てふ人が、リベラの意思を尊重し、生涯、バスルームを開けなったために、そのバスルームから、フリーダ・カーロの遺品が持ち出されるまでに、50年の歳月がかかった、というわけだった。
 その遺品も、それから、何人かの写真家が撮影したそうだが、フリーダ・カーロ財団を満足させる出来上がりにならなかった。石内都の写真は、「Frida by Ishiuchi」という写真集になった。
 石内都は、遺品を撮ることは、過去を撮ることではなくて、今という時間に出会っている感じがすると言ってた。「氷の花火 山口小夜子」も、山口小夜子の遺品が撮らせた映画だとも言える。
 山口小夜子の場合は、パリコレのトップモデルとして、また、パフォーマーとしての、フリーダ・カーロの場合は、障害と痛みに耐え続けた、それぞれの身体の記憶が、遺品に強く刻印されている気がする。
 身体は、その人の芸術がどうの、思想がどうの、と、他人が言い、その人自身も、時には信じ、時には疑いつつも、思い描いている自己のイメージが、どうあろうと、否応なく、まぎれもなくその人自身なのは、その人の身体であるかぎり、その限界を、山口小夜子も、フリーダ・カーロも常に意識せずにおれなかったろうと思う。
 服は、その身体の遺品である以上に、取り残された、身体の一部であるかのようだ。面白いのは、最初、フリーダ・カーロの好んで着ていたテワナドレスてふ民族衣装、フリーダ・カーロの自画像でも有名な服だと思うけれど、それを「女性蔑視な感じがする」と、撮らずにいた石内都の心境がだんだん変わっていく。
 最初に撮影した写真をラッシュで確認して、もう少し引きの絵も欲しいと、撮り直すのだけれど、

なんかね、気持ちが変わったんだよ私。要するに、あんまりこのセットで撮ろうっていう気はなかったんだよね。一番初めは。それが、プリント上がってから、見たらやはりすべて、きちんと撮らなくては。初め見たときはなんかすごくトゥーマッチな感じがして、これが。それがだんだん慣れてきたんだよ、たぶん。うん、かっこいいね。すごい。

 これは、パンフにシナリオが採録されているので出来るんだが、フリーダ・カーロの着ていた服を撮りながら、しゃべっている言葉。
 パンフのインタビューに、もうひとつ、

・・・じつはラッシュで見たフィルムの中にオアハカの女性たちが「フリーダのテワナドレスの着方は間違っている」と悪口を言う場面があるんです。するとそのあとに雷雨がくる。あ、フリーダが怒ってる、と思いました。残念ながら映画ではそのシーンがカットされてしまいましたが。

Frida by Ishiuchi

Frida by Ishiuchi

春風亭昇太と松本貴子
フリーダ・カーロの遺品 公式サイト