『日本会議の研究』

knockeye2016-07-01

日本会議の研究 (SPA!BOOKS新書)

日本会議の研究 (SPA!BOOKS新書)

 読後の気分を例えて言えば、バイクでツーリングの途中、昼飯でもと立ち寄った店で入ったトイレの、便器の蓋を開けたらまさかの汲み取り式で、匂いと蝿が一気に襲ってきたっていう、そういう感じ。
 これ以上のことは言いたくない。kindleになってるから読んでください。
 中島丈博が、週刊現代の書評で書いてたのは、「かねてより私は、安倍政権の女性閣僚や女性党幹部が喜々として靖国参拝に訪れるさまをテレビのニュースで目にする度に、何とも奇態な妖怪の一群を見るが如き違和感と不可思議感に襲われて仕方がなかったが(略)、安倍政権の反動ぶりもヘイトの嵐も、『社会全体の右傾化』によってもたらされたものではなく、実は、一部の人々の『市民運動』の結実」という点、まったく、呆気にとられる。この本を出版しているのが扶桑社、つまり、サンケイグループだということも心に留めておいてもよい。
 この『市民運動』が『』に入ってるのには、もちろん、充分すぎる意味がある。中島丈博の言う「妖怪の一群」のような、市民感覚と乖離した、不可思議な政治は、日本会議が擬態した「市民運動」の地方行政に対する圧力によってもたらされている。
 ヘイトスピーチ関連法についてふれた時も書いたが、この国では、地方行政が麻痺している。市民活動の体をとっていても、特定の団体が操作していると疑われる、奇妙な署名などは、拒否してしまえばよい。それで不服ならば、司法の場で争われるだろうし、そうなれば、その背後の団体の存在も明らかになるはずなのだったが、地方行政が無気力で、そうした圧力に易々と屈するために、こうした似非市民活動が罷り通ることになる。
 「プロ市民」などという隠語は、たぶん、リベラルに向けて使われるはずだが、実態は、日本会議においてより先鋭化していたとは、なんとも滑稽だ。
 これは、度々書いてきていることだが、日本の政治史に、右だの左だのという対立が存在したとは思わない。吉本隆明も「転向論」で、日本の政治思想の「架空性」を指摘している。
 カルト集団にすぎない連中が、参議院のドンとか言われる小心者を締め上げて、奇妙な文言を盛り込ませたにすぎない事実を、「右傾化」と名付けてしまう、その「架空性」が、日本の政治思想の特徴で、架空の左の立場に身を置いて、架空の右を攻撃している、その間に、本質的に無内容で無思想なカルトに政治を乗っ取られる。
 本来、あるべき政治の対立が、架空であることは、その対立こそが、国民の選択肢そのものなわけだから、この国の民主主義が架空であることに他ならない。
 ある問題について、意見が対立することは、その問題の解決のためには、是非とも必要な方法なのである。
 ところが、多くの識者が指摘しているように、この国では、その対立がねじれている。そのために、問題に対して有効な解決策を見つけることができない。問題の周辺をいつまでもうろついている。
 たとえば、安保関連法案に反対するなら、「戦争法案反対」では、反対にならない。なぜなら、「戦争法案」などというものはなく、もしあったとしたら、すべての人が反対するに決まっている。だから、そこに対立はなく、だから、議論もなく、妥協もなく、解決もない。
 この何十年か、この国の政治、報道を見てきた人なら、このような例はいくらでもあげることができるだろう。
 一部のカルトが政治を動かし、終わってみたら、なぜそうなったか誰もわからない。これは、実は、中国侵略から対米戦敗戦に至るプロセスそのままだ。
 憲法学者小林節が、改憲論を唐突に覆したのは何故か不思議だったのだが、なんとなく腑に落ちた。日本会議の「改憲」は、改憲どころか、立憲主義の否定である。この結論は、全く、小林節の言葉をなぞってしまっているのだが、日本会議の実態を知れば、それ以外に言葉がない。