映画.comシネマで「LISTEN」てふ‘無音’の映画を観たことだった。無声映画でなく、‘無音’。
牧瀬依里という人と雫境(DAKEI)という人が共同監督した「聾者の音楽」をテーマにした映画です。
公式サイトによると、
「もともと聴者のクラシック音楽を、聾者にも分かるよう視覚的に、いわゆる『翻訳』をしようと考えていました。」
「そのためには聴者の協力も必要で、音楽のプロにアドバイスをもらったり」して「聾者の音楽」に聴者の音楽理論を応用しようとしたらしい。でも、
「その『翻訳』はうまくいきませんでした。聴者に聾者の音楽を理解してもらえなかったからです。私の中には聾の音楽があったのですが、周りにそれをうまく伝えられませんでした。」
というわけで、この映画を作ることになったらしい。
「聾者の音楽」というと、ワタリウム美術館で観た、齋藤陽道(この人も聾者)の写真展の「無音楽団」てふ、一連の作品が見事で、なるほど、こういう風に音楽が見えるんだな、と印象に残った。
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無音の音楽というと、ジョン・ケージの「4分33秒」が有名だ。あれは、4分33秒、演奏者が何もしない。しかし、その間、無音かというとそうではなく、演奏者が音楽を奏でないと、音楽ではない音が聞こえる。ジョン・ケージは、音を音楽から解放しようとした。
だから、あれは、無音の音楽とは言えないが、音を音楽から解放できるならば、音楽を音から解放する事もまた可能なはずである。
「すべての芸術は音楽に憧れる」とウォルター・ペイターが『ルネッサンス』に書いて以来、芸術論をほざく人間は、一度はこのフレーズを口にすることになっている。どういう意味か知らないんですけどね。
ただ、絵を鑑賞するときの実感として、さっきの齋藤陽道の写真もそうだけれど、例えば、ラウル・デュフィとか、パウル・クレーの絵を観ると、不思議に音楽を感じる。パウル・クレーの場合は、色彩のリズムだと思う。また、ラウル・デュフィの絵は、輪郭線と色彩がずれているのが特徴なので、そのラグに秘密があるのではないかと思ってみたこともあった。
また、アルチュール・ランボーやウラジミール・ナボコフは、特定の音が特定の色を伴う、「共感覚」、「色聴」の持ち主だったと言われている。アルチュール・ランボーの「A は黒、E は白、I は赤、U は緑、O は青」で始まるソネット『母音』は、多分よく知られている。このように、視覚と聴覚がシンクロする例がある。
また、オリヴァー・サックスの『音楽嗜好症』によると、脳の障害で数秒しか記憶が持たなくなったピアニストが、数十分もある曲を、障害を負う前と同様の正確さで弾くことができる例を紹介している。
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というわけで、この「LISTEN」にも興味津々だったわけだが、この映画は、そこまで新しい経験ではなかった。
雫境(DAKEI)のダンスは、さすがだと思ったが、舞踏が音楽的であるのかどうかはよくわからない。舞踏には、時間感覚よりも空間感覚がより強く求められるという気がする。
米内山明宏てふ人の手話ポエムは素晴らしかったが、音楽的であるよりは絵画的であるように思った。この人は、黒柳徹子とともに「日本ろう者劇団」を立ち上げた、草分け的存在だそうだ。
しかし、この映画だけに限っていえば、池田華凛という少女が強い印象だった。子供が見せるきらめきにはかなわないものがある。
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