坂本龍一 performance in NewYork : async

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 恵比寿ガーデンシネマで、「坂本龍一 performance in NewYork : async」を観てきた。
 まず、一番驚いたのは、客席の最前列に福岡伸一がいたこと、ではなく、あれがライブで演奏できるんだってこと。『async』はituneに入れて聴いているが、ああいうものって、昔の言葉でいう「レコード芸術」というのか、レコードであれ、CDであれ、テープであれ、何かのメディアに録音された状態が完成品で、ライブで演奏することを想定していないと、勝手に思い込んでいた。
 なので、坂本龍一がなにか楽譜のようなメモのようなものを二三枚持って会場に入ってきて、それを見ながらピアノを弾いたり、何かのつまみをひねったりして、私が部屋で寝っ転がって聴いている『async』を完全に再現するのを見て驚いた。
 去年に観たおなじシブル・ノムラ監督の「CODA」にあったYMOのワールドツアー、今の感覚だとまるでスーパーコンピューターかと見まごうばかりの巨大なマシンをあやつるYMO+矢野顕子の懐かしい姿がオーバーラップした。1980年代のあのころから、坂本龍一にとっては、これが人前で演奏できるのが当たり前のことなのだろう。
 しかし、同時に、はたしてこれがライブと言えるのかっていう疑問も生じた。ピアノを弾いたり、ガラスを太鼓のばちでこすったりは、たしかにナマの音に違いない。しかし、たとえば、氷河の下を流れる水音だったり、ノイズだったり、落ち葉を靴が踏む音だったりのサンプリングは、ライブって言えないのじゃないか。まあ、それを言い出すと、この映画全体が、録画の再生ではあるが、その画面を通しても、やっぱりピアノに向かっているとき、何かを叩いているとき、など、演者の動作が直接つながっている音がビビットに聞こえた。
 ここで聴く側が戸惑っている問題は、けっこう古い問題かもしれなくて、それは、昔、昔、大昔ならば、たとえば、氷河の水音でも、靴の落ち葉を踏む音でも、音楽家は楽器の音で抽象的に表現するしかなかった。しかし、今はどんな音でも採取して持ち運ぶことが可能になった。それが音楽の可能性を広げたにしても、聴衆は案外保守的で、耳慣れた抽象性を望んでいるのかもしれない。その一方で、こうした音楽家の感性で押し広げられていく可能性が、保守的な聴衆の耳を開発していくのかもしれない。
 それでも、もうひとつの問題として、偶然性の問題、採取された氷河の音に対して、演者によって演じられて表現される氷河の音がやはりライブの音なのではないかっていう疑問は残っている気がする。
 それは、視点を変えると、今回のようなライブのスタイルそのものについての疑問にもなるわけで、今回のようにライブの様子をそのまま撮った映画ではない映画の可能性もある。そのことはたぶん坂本龍一自身も気づいていて、「設置音楽」という、ホールではなく美術館などの空間で体験するっていうスタイルにも挑戦している。
 この『async』も実は、去年の春にワタリウム美術館で設置音楽として発表されたものなのである。すっごい混雑だという評判に惧れをなしていかなかったのが悔やまれる。たぶん、今回の映画に記録されたような限定的な空間よりも、聴衆が自由に出入りでき空間を選べる設置音楽のスタイルが、この音楽には向いているうと思う。
 設置音楽については、「設置音楽2」として≪IS YOUR TIME≫が初台のオペラシティタワーNTTインターコミュニケーションセンターに設置されている。たぶん、こっちに行ってみなければならないのだろうと思う。

坂本龍一 with 高谷史郎|設置音楽2  IS YOUR TIME