日本、家の列島

knockeye2017-05-01

日本、家の列島

日本、家の列島

 パナソニックの汐留ミュージアムで「日本、家の列島」っていう展覧会が開かれている。これは、2014年の5月から、フランス、スイス、ベルギー、オランダの各都市を巡回した展覧会の帰国展である。
 現在の日本の、公共の建築ではなく、個人の住宅に焦点を当てて紹介した、ユニークな展覧会だ。
 たぶん、日本に暮らしたことのある欧州の人たちの目には、日本の町中に忽然と現れる感のある、なんともユニークなデザインの個人宅に興味をそそられるのは無理からぬことだろう。し、そのユニークなデザインの自由さには、進取の気風や創意工夫を見てもいいのかもしれない。
 しかし、おそらく欧州の人たちが無意識にか見落としてしまっているのは、ひとつには、こうした個人宅が存在する背景にある、日本人のコミュニティー意識の欠如、もうひとつには、個人生活のコンビニ化ともいうべきか、個人の住宅が、職業の場、教育の場、あるいは、それと同じく、その家に住む家族が、その家に住まない他者、親せきであったり、親であったり、友人であったり、あるいはまた、そうと一般的に名付けられない、独特なかかわりのある人たちだったりする他者たちと完全に隔絶する場になってしまっている、日本の非社会性なのだろう。
 たとえば、アメリカなら、誰かがある町に越してきたとすれば、近所の人たちを招いて、ハウスウォーミングパーティーをするだろう。新しく家に住むことは、新しいコミュニティーの一員になることだし、そのコミュニティーに対して義務を負うことだし、権利を持つことなのだろう。
 この展覧会で見られる個人宅のありようは、デザインという点では確かにユニークだが、そのそもそもの「住む」ありように対する意識は、驚くほど一様で、簡単に言ってしまえばそれは、大邸宅を建てるほどではないが、ある程度の土地を買えて、建築家に家を頼める程度の金があるので、手ごろな土地を見つけて、そこに家を建てた、というそれだけのことなのである。
 その家がどんな町に建っているのかは、まったく気にもしていない。どんな町であろうが、そこに住む人にとっては、何の関係もないからだろう。なぜなら、彼らの生活を規定しているのは、車か公共交通かによって運ばれる、その家からはるかに離れた場所にある職場の人間関係なのであって、家は、なんならその職場の人間関係と遮断した場所でありたい。家では、一切の社会性を放擲してしまいたい。職場が社会のすべてなのであって、家には全く野放図で無責任な自我があるだけなのである。
 日本人の「持ち家信仰」は、日本人のそうした公私の完全な断絶が無関係ではないだろう。自分が住んでいるコミュニティを住みよくしていくために、積極的にも消極的にもかかわっていこうという意識は皆無だといっていい。したがって、個人の権利という意識も義務という意識も生まれない。そうした人たちの巨大なマスが東京という混沌を作っている。
 なので、そんな生活しかない東京にどのような意味でも市民社会が形成されるはずはないのに、いわゆる「リベラル」を名乗る人たちは、生活実感からかい離した、架空の理想論を振り回すばかりなので、誰の心も動かせないし、どんなアクションもムーヴメントも起こせない。
 いわば、東京に住まう人たちにとって、人間関係が職場にしかなく生活とはかい離しているように、「リベラル」を言う人たちにとっては、それをいう場が職場なのであって、彼ら自身が声高に語っている「リベラル」が彼らの生活から発しているものかといえば、それはかなり疑わしい。
 吉本隆明が「転向論」で言っていた思想の架空性はたぶんそれを指しているのだろうと思う。
 すくなくとも、東京では小さな家でも建てることは「成功」を意味している。そして、その「成功」は、小金を持ったということ以外何も意味していない。というのは、そうした「成功」を手にした人たちが、コミュニティーに対してまったく無力で、何かを発信していくこともなく、小さな土地を高い塀で囲って自己満足に浸っている、それだけのことを、これらの住宅のすべてが、もののみごとに、まったく一様に物語っているからだ。
 上野の国立西洋美術館世界遺産に認定されたわけだけれど、あれは、ル・コルビュジエの建築のひとつとしてであった。マルセイユにある、ル・コルビュジエのユニテ・ダビタシオンは、戦後の復興住宅として設計された共同住宅だった。熊本の震災の被害者はまだ四万人を超す人たちが仮設住宅に住んでいる。東日本大震災のときもそうだが、私はその話を聞くたびに「なぜ仮設なのか」と思う。なぜ復興住宅を作らないのか。それは、官民をあげて、「持ち家信仰」を捨てられないからだ。仮設住宅ではなく、ユニテ・ダビタシオンのような復興住宅を建てて、被災者の人たちにはそこに住んでもらえばよいのではないか。その方が被災者の負担は少なく、かつ、のちのことを思えば、その復興住宅は資産になる。
 にもかかわらず、そういう復興住宅が建てられないのは、コミュニティー意識がないからである。被災者は、国に対して権利として住宅を建てるように主張もできないし、非被災者は、義務として被災者にたいして何らかのアクションを起こそうともしない。そして「成功者」は、かたつむりみたいな変な家を建てて自分の殻に閉じこもっている。それがこの「家の列島」の正体なんだろうとおもう。