鈴木春信

knockeye2017-09-23

 千葉市美術館は私の所在地からは遠いのだけれど、時々見逃せない展覧会がある。去年の「浦上玉堂と春琴・秋琴 父子の芸術」はずっしり来る展覧会で前後期とも出かけた。「蕭白ショック」という展覧会もあった。ちなみに、曽我蕭白の≪虎渓三笑図≫は、ここの所蔵品。Pinterestにアップしといたら、海外からのアクセスがコンスタントにある。曾我蕭白水墨画キュビズムと、そんなふうなことを村上隆が言っていたのがよくわかる絵。それから鈴木其一の≪芒図屏風≫もここの所蔵品。
 今は、ボストン美術館が所蔵する浮世絵から鈴木春信を中心に展示している。
 鈴木春信は、吾妻錦絵の創始者といわれる。田中優子によると「連」というサロンが当時の江戸にはあって、同好の士が身分を超えて、ハンドルネームみたいのを使って夜な夜な集まりを持っていた。江戸文化の多くを育んだのは「連」であったらしい。
 絵暦の交換会ってのが大流行したことがあった。明和2年と、時期もはっきりしている。江戸時代の太陰暦は、今の太陽暦みたく「にしむくさむらい」とか、大の月と小の月が固定されてなかった。なので暦は重要だったんだが、それをひとひねりして、大小の月を判じ物のように絵に織り込んだものが絵暦で、この絵に凝ったものを見せっこするのが流行った。
 もともと商売は関係なし、物好きで集まっている連中なので、金に糸目をつけずに高級な紙や絵の具を使って、美しさを競ううちに、世界でも類を見ない多色摺木版の技術が急発展した。流行は一年くらいで終息したが、そこで発達した多色摺木版の技術を商売にフィードバックしようと版元が考えるのは当然で、そうして売り出されたのが吾妻錦絵だった。
 今回の展覧会には、そうした絵暦と、その暦の部分を削って出版した錦絵が並べて展示されていたりして興味深い。
 そんな背景があるので、鈴木春信以前と以後では、浮世絵版画は質的に違う。突然ひらけた表現の可能性が絵師のイマジネーションを解放したってことはあるだろう。
 そうした「錦絵の創始者」という動かしがたい評価の一方で、絵師としての鈴木春信はかなりユニークだと思う。太田南畝の『半日閑話』には「我は大和絵師なり、何ぞ河原者(役者)の形を画くにたへんや」という春信自身の言葉が紹介されているそうだ。錦絵以前には春信も役者絵を描いたが、錦絵以降はほぼ全く描いていない。例外は瀬川菊之丞で、この人は歌舞伎史上初めて上方の出ではない江戸出身の女形だったそうだ。
 たぶん(と、ここからさきは私の想像だが)、鈴木春信は「似顔」に興味がなかったのだと思う。鈴木春信の描いた男女はみんな同じ顔をしている。老女とか神仏とか異人とかを除くとどれも同じ顔で、表情は無表情というよりニュートラル。その意味でギリシャ彫刻を類推したくなる。その表情をあえて言うなら「無心」で、ありとあらゆる表情に変わりうるニュートラルな一瞬をとらえているように見える。
 鈴木春信は、四十そこそこで急逝してしまったため、司馬江漢が鈴木春信の名を騙って代筆していた時期がある。今度の展覧会には、司馬江漢の絵も展示されているが、まず何より顔が違う。鈴木春信の絵が、あの同じ顔の反復にもかかわらず、圧倒的に表情が豊かなのは、ポージングとデッサンの確かさにその秘密があるのだろう。その点でもまた、一歩踏み出す寸前を捉えたと言われるギリシア彫刻と比べたくなる。ギリシア彫刻も顔に個性を持たせようとした気配はない。だからこそ、たぶん観る者の目を惹きつける。それと同じような引力を鈴木春信の描く男女に感じる。
 今回出品されている『絵本わかみどり』の「(略)洛の西川叟の書置給へるさうしのそこここ取つくろひて、あやしの二巻となりぬれど、蠅の足に墨付て歩たるにひとしければ(略)」という春信自身が書いた序文が紹介されていた。
 ここで西川叟といわれている西川祐信はこの時すでに故人の上方の浮世絵師だが、鈴木春信だけでなく先んずる奥村政信など江戸の浮世絵師に模範とされていたらしく、西川祐信にオリジナルを求められる絵も多いそうだ。喜多川歌麿が鈴木春信に私淑していたことは知られている。この展覧会ではそうした連続性も観ることができる。
 鈴木春信の作品は、活躍した期間が短いために数が少ない上に、その8割が国外にあるため、日本でまとめて観る機会は案外多くないそうだ。