顔真卿の祭姪文稿を中国の人たちに交じって鑑賞する

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 東京国立博物館では、毎年、「博物館に初詣」っていう企画をやっていて、これに,行ったり行かなかったりしてたのが、今年は何となくいかなかったということもあり、この「顔真卿展」は観に行くつもりにしていた。
 書はまったくわからない。し、そもそも読めない。読めないものをいいの悪いのわかるはずもない。
 でも、観に行くんですけどね。2011年に根津美術館であった「古筆切」の展覧会も観に行った。音に聞こえた根津美術館だから、外国人も多くいた。私はたぶんこの人たちとほとんど同じ鑑賞しかできてないなと思ったものだった。もちろん、子供のころに習った「お習字」の記憶があり、墨を硯にするときの匂いや、色の記憶を持っているけれど、この読めない書を前にした私はジャクソン・ポロックを観る私よりこころもとないと言わざるえなかった。
 先週観に行ってもよかったけれど、先週は突然、春みたいに暖かくなったので、イケムラレイコを観にいった。それから、土曜日の夜に『恐怖の報酬 オリジナル完全版』(1977年にウィリアム・フリードキン監督がリメイクしたもの)があったので、そっちをとったのだった。
 上野には土曜の夜に行くことにしている。国立東京博物館と国立西洋美術館は土曜は午後9時まであいているのだし、常設展は撮影可なのだし、せっかく関東に住んでいるからには、土曜の夜にいくにかぎる。だからあえて翌週にずらしたの。
 誤算だったのは、ずらしたその日が2月10日だったことで、その日は中国の春節の最終日だった。ということは、その前の週は春節の初日なわけだから、どっちもどっちかもしれないが、この「顔真卿展」は、ひょんなことから中国でバズっていたらしく中国から大挙して人が押し寄せていたらしい。
 顔真卿の祭姪文稿は、王義之の蘭亭序と並び称せられる書の至宝だが、国共内戦の際に蒋介石によって台湾に持ち出されたという経緯がある。もともと紫禁城にあった宝物が流浪するきっかけには日本軍の侵略があったわけだから、中国の至宝が台湾から日本に運ばれて展示されるについて、中国の人たちは心穏やかでない。
 当初は批判が噴出したらしいが、実際に、展示を見た中国の人の感想がSNSに上がり始めると、展示内容の充実ぶりが話題になり、大評判になった。最初は批判噴出、ふたをあけてみると高評価、一番パズるパターンですね。
 それで、こりゃまずいかな、春節が終わる来週にずらした方がいいかな、とも思った。しかも、雪まで降り始めるし、こりゃ下手したら帰れねえぞ、とか、いや、雪だから、逆に人が少ないかな、とか考えるうちに、結局、上野に到着しちゃったんですけどね。
 もっと遅くに行くつもりだったけれど、先週から一転、凍てつく寒さに耐えきれず、午後五時すぎにはチケット売り場に着いていた。その時点で「祭姪文稿60分待ち」の表示。ああやっぱり。
 中途半端に遅いから、ほかの美術館は閉まってるし、上島珈琲で軽食をとり、先に常設展を観てそれで一時間半ほどすごしたけど、それでも、30分待ち。これ以上遅らせると、今度は観られなくなるぞと、焦って入場しました。
 すでに書いたとおり、私は書には全くテイストがないのだけれど、中国で話題になっている通り、甲骨文からはじまり、篆書、隷書、楷書と中国の文字が、今私たちが使っている漢字に近づいてくるのがよくわかった。
 そして、顔真卿の祭姪文稿だが、私が並んだのはもう午後七時半くらいだったのに、それでもまだ行列ができていた。さすがに15分くらいしか並ばなかったと思うが、中国の人たちに交じって、唐代の高士の書にまみえるのは得難い経験だった。
 マナーについてあれこれ言われることもある彼の国の観光客だが、この行列に並んでいる人たちは、むしろ、粛々と礼節を保っているように見えた。顔真卿に対する敬意なのだろうか。
 なぜそんなに待ち時間がかかるのか分かったのは、祭姪文稿のサイズはA4の紙が5枚並ぶ程度なのだが、そこに書かれている文章をこの人たちは、「読んでいる」からだった。
 係員らしき人達が「立ち止まらないでください。」とか言っても、それは日本語だから伝わらないし、はるばる中国からこれを観に来た人があっさり素通りするはずもない。中国から来られたと思しきお年寄りが、顔真卿の書き残した文字を覗き込む姿には、胸を突かれるものがあった。
 祭姪文稿が書かれたのは西暦758年である。日本でいえば奈良時代。古筆切にもそのころに書かれたものがあるが、日本語てで書かれたそれを私は読めない。おそらく、私だけではなく、多くの日本人が読めないだろうと思う。でも、この人たちはこれを読んでいる。何故それがわかるのかと聞かれれば、読んでいる顔とただ見ている顔はやはりちがう。しずかに首を傾けて、その1300年前の文字に見入る面差しは、まるで私には聞こえない音楽に耳を傾けているように見えた。
 吉田健一は「文明とは、いいかえれば、優雅さのことだ」と書いていた。顔真卿が、安禄山の乱で命を落とした甥のために書いた1000年以上前の追悼文を、外国にまではるばる訪ねてくる余暇の過ごし方を、文明と呼ばずなんといえばいいのかわからない。結局、私たちの文化は、この文明の辺縁に位置している。私たちの文化が独特なことに疑いはないけれども、文明がなければ、文化はただの野蛮にすぎない。私たちの文化はこの黄河流域に発達した文明に列なっている。
 なんといっても漢字は、ここに書いている、私たちの文字でもあり、その文字の源流でもあり、私たちの名前でもあるのだし。中国文明という大河がふたたび穏やかな流れを取り戻すのなら、これほど喜ばしいことはない。