今日、映画館に行ったら、このポスターを見かけまして、子供の頃は気がつかなかったけど、ウルトラマンって完全に、在日米軍のメタファーでしたね。
何故「光の国」の人が、私たちの星を守ってくれるの?。しかも、日本のウルトラ警備隊が手こずると来てくれるし、さらに都合いいことに良くも悪くも3分しかいないし、「シュワっ」って帰っていく、あれは、あのあと、沖縄に帰って行ってたんですね。まだ沖縄が返還されてなかったから。
だからこれアメリカではウケなくて当然。wikiで調べてみたら、例外的に、「ウルトラマンG」だけが好調だったのは、ウルトラマン愛が強かった京本政樹のコミットと関係してるかどうかだけど、wikiで追っただけでも、「ウルトラマンG」はシナリオに説得力がある。
「ウルトラマンG」は初代の「ウルトラマン」の第一話の設定をそのまま敷衍していることを考えると、初代ウルトラマンが始まったころは、まだ、第二次大戦後の国際秩序が信じられていて、在日米軍はその派生的問題にすぎなかったのかもしれない。
初代ウルトラマンでも、ジャミラなどは米ソ冷戦が影を落とし始めているが、敵役が怪獣から宇宙人に変更されたウルトラセブンになると、米ソの宇宙開発競争の激化もあいまって、宇宙を語ることは同時に米ソ冷戦をかたることにもなった。怪獣が災厄のメタファーだったとすれば、宇宙人は侵略者なわけである。
「ウルトラマンG」が当たって、つづく「ウルトラマン・パワード」がこけたのは、そういう見方をすると、「ウルトラマンG」が初代ウルトラマンが持っていた世界観を引き継いだのに対して、「ウルトラマン・パワード」は「ウルトラセブン」の持っていたような、批評意識を持ち得なかったからだといえるのだろう。
逆に言えば、「ウルトラマンG」が海外で受け入れられたことがむしろ奇跡で、それは、国際社会がもしかしたら今でも、国際平和をかんがえるとき、第二次大戦直後の国連中心主義しかイメージできないということを示しているのかもしれない。