このところ周囲でいろんなことがリンクし始めていてぶきみなくらい。
昨日ふれた佐伯啓思の『近代の虚妄』にしても、Q-anonの連邦議会議事堂襲撃にしても、示唆していることは、戦後、ずっと自由と民主主義のロールモデルだったアメリカが完全に崩れ去ったということなんだろう。
フレデリック・ワイズマンの『ニューヨーク公共図書館 エクス・リブリス』を観たのはおととしのこと。今回の襲撃があれと同じ国のできごととは信じられない。文明が野蛮に、一日で入れ替わる、まるで映画『ボディスナッチャー』のような不気味なメタモルフォーゼを私たちは目撃したわけだ。
映画『バクラウ』が撮られたのは2019年なんだけど、このブラジル映画に登場するアメリカ人はまさにトランピアン-アメリカンだ。もはや、こういうアメリカ人が現に存在するという事実から私たちは後戻りできない。
そのリアリティがウルトラ不気味。現実がそれを追い越してしまったので、オチが要らなかったと感じるくらいだ。ここで目撃するものもまた、文明と野蛮のあざやかな転換で、アメリカが、これこそが文明だと主導してきた価値観が、野蛮だとしりぞけられてきた価値観に見事にひっくり返される。
英語とポルトガル語のセリフが混在しているが、英語のセリフはすべて汚らわしいと感じるくらい。この幻術をこの映画にかけてみせたクレベール・メンドンサ・フィリオ監督の演出は大したものだった。
『パラサイト』とカンヌでパルムドールを争って、惜しくも次点に終わったらしいが、もし今年だったらどうなったかわからないと思う。
2019年のこの映画が今(と言ってもシアターイメージフォーラムで公開されたのは去年の11月28日)公開されるのも、シアターイメージフォーラムらしい時代感覚だと思う。
トランピアン-アメリカンが毒しようとし続ける世界に対して、この映画の示す浄化作用もまたひとつの選択肢だと思う。
興味深く、また皮肉だと思うには、Wikipediaにはこの映画を「西部劇」と書いてあった。たしかにそう言って100%間違いない。だとしたら、すべての西部劇がこの映画のフリにすぎないと言えるだろう。
ピルグリム・ファーザーは世俗化を拒否してイギリスを出国した狂信的なキリスト教徒の集団だった。「新大陸(という呼称が彼らの狂信ぶりをよく表している)」にたどり着いたあとの彼らの侵略史が西部劇だった。そうした西部劇を反転するとなぜかリアルになってしまった。不思議というよりやはり不気味なほどリアル。