『ジョーカー』

 このブログには書いてないけど、ちょっと前に『ゴールデン・リバー』という、ホアキン・フェニックスの西部劇を観た。ホアキン・フェニックス、ジェイク・ジレンホールが共演してこういいうことになりますかっていいう映画だった。
 最近では、それこそ、『ダークナイト』のブルース・ウェイン役のクリスチャン・ベイルが主演する『荒野の誓い』が公開されるし、これはたぶん、最先端の映像技術で西部劇を撮ってみるっていうブームなんだろうと思う。
 『ゴールデンリバー』はシナリオがひどかったものの、ホアキン・フェニックスについては、その存在感だけで映画一本もたせることができるってことを証明した。
 アメリカ映画におけるバットマンは、NHK大河ドラマ織田信長といっしょで、無限に変奏可能なメロディであるらしい。ゴッサムシティというディストピアのイメージが、アメリカ人にとってのニューヨークのイメージそのものなんだろう。「アメリカ人の半数はニューヨークの場所を知らない」というし。
 マイケル・ムーアがこの映画を絶賛しているそうだ。
theriver.jp

 そこで描かれている物語と、提起されている問題は非常に深く、また非常に必要なものだからです。この芸術作品の精神から目をそらせば、我々を映す鏡の恩恵を受けそびれることになるでしょう。その鏡には精神を病んだピエロが映っていますが、彼は一人ではありません。彼は私たちのすぐそばにいるからです。

 それで思ったんだけど、ホアキン・フェニックスのジョーカーは、

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『ジョーカー』のホアキン・フェニックス

バットマンのジョーカーであると同時に、

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『ライムライト』のチャップリン

半分以上、『ライムライト』のチャップリンだ。


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チャールズ・チャップリン by ユージン・スミス

 バットマンが誕生したのは奇しくもドイツがポーランドに侵攻した1939年。遡って、1932年に来日していたチャップリン五・一五事件にあやうく巻き込まれかけるということもあった。だから、実は、バットマンチャップリンは、同じニューヨークを見ていたと言える。そして、その時代、大恐慌と世界大戦の時代に、ノスタルジーではなく、もっと切迫したリアリティをもって、時計の針を巻き戻さなければならないと、米国の大衆が感じているのだとしたら、その現実から目を背けるべきではないと、マイケル・ムーアは主張したいのだろう。全米で上映三日で興行収入100億円突破、土日2日間の興行収入ダークナイト』の251%とかの大ヒットにはたじろがされる。
 『宮本から君へ』の時にも感じたけれど、もう、人が社会に暴力を是認し始めている。その感じは、じつは、ブルース・ウェイン少年の目の前で、その両親の頭が吹き飛ばされる『ジョーカー』よりも、『宮本から君へ』に痛快な明るさを感じている、日本の方に強いのかもしれない。
 これもまだ書いていなかったが、マッテオ・ガローネ監督の『ドッグマン』というイタリア映画も観た。陰と陽、イタリア独特の人間関係のありかたはあるけれど、これってイタリアの『宮本から君へ』じゃないの?と、エンドロールを観ながら思ってしまった。カンヌ国際映画祭で主演男優賞を獲得したほかに、イタリアのアカデミー賞にあたるダヴィッド・ディ・ドナテッロ賞で最多9部門受賞した。
 まるで、日本でも、イタリアでも、アメリカでも、暴力待望論が渦巻いているかのようである。
 マイケル・ムーア監督が『ジョーカー』を絶賛するのは意外ではないのかもしれない。しかし、マイケル・ムーア監督が絶賛する映画が大ヒットするのは意外ではないだろうか。クリント・イーストウッドオリバー・ストーントランプ大統領を支持したなんてニュースを聞くときに、わたしはむしろ、その背後にいる普通の人たちの代弁を聞いてしまう。この映画で、ブルース・ウェインの両親を撃ち殺すのは、ごく普通の人たちだった。
 もしバットマンが主役の映画なら、それはもっとも痛ましいシーンのはずである。ところが、この映画では、最も痛快な大団円ですらある。それが階級闘争の象徴として描かれているからである。
 この映画に登場したピエロのマスクは、『Vフォー・ヴェンデッタ』のガイ・フォークスのマスクのように現実世界に登場することになるかもしれない。
 しかし、現実世界では、暴力が弱い者から強い者へと向かうことはほとんどない。暴力は、強いものから弱いものへ、弱いものからは、より弱い者へと不可逆的に向かっていくだけだろう。