『蜜蜂と遠雷』小説と映画をくらべてみる

蜜蜂と遠雷(上) (幻冬舎文庫)

蜜蜂と遠雷(上) (幻冬舎文庫)

蜜蜂と遠雷(下) (幻冬舎文庫)

蜜蜂と遠雷(下) (幻冬舎文庫)

 恩田陸が、架空の「芳ヶ江国際ピアノコンクール」を舞台に若いピアニストたちの成長を描いた『蜜蜂と遠雷』は、映画化不可能と言われていた。恩田陸が言葉で音楽を表現したあざやかさで、もしかしたら、音楽を映像化できるのかもしれないが、どうなんだろう。
 原作の小説は、恩田陸直木賞と二度目の本屋大賞をもたらした人気小説なので、その時点でハードルはすごく高い。
 よい小説を読むのはつくづく贅沢な体験なんだなと思った。本の解説を読むと、恩田陸は、この本の執筆にあたり、浜松国際ピアノコンクールを四回も取材している。3年ごとの開催なので、10年以上の歳月がかかっている。一気に読み終えてしまうが、その背後にそれだけの厚みのある取材がされている。
 そうして紡ぎ出された言葉をもういちどもとの視覚と聴覚の体験に還元しいようというのは途方もない試みだろう。その勇気あるトライだけは評価したい。
 
 音楽を文字情報に変換しなければならない小説は難しいのはもちろんだが、その一方では自由度も高い。音楽と人物の心理をリンクして、同じ次元の表現にできる。映画は逆に、音楽を言葉ではなく音楽で表現しなければならない。しかも、小説に書かれているような演奏を再現できたとしても、そのままでは、演奏に過ぎなくて、それを今度は映画表現に変換しなければならない。

 母親の死がきっかけで挫折した、天才少女ピアニスト・栄伝亜夜、その亜夜に幼い頃ピアノの世界に導かれた、期待の新星ピアニスト・マサル・カルロス・レヴィ・アナトール、急逝した巨匠・ユウジ・フォン・ホフマンの最後の弟子となった風間塵、コンクールの年齢制限ぎりぎりで天才たちに挑戦する高島明石。
 小説に登場する、これらの主要なコンテスタントは、神話的な象徴性を帯びている。亜夜の復活劇が大きなモチーフになっているが、それは単に、天才子役が大人の役者に脱皮する、といったよくある根性話ではない。小説では、亜夜の天才を疑わせる部分はどこにもない。マサルの師匠のナサニエルは、亜夜の演奏を聴いてマサルのライバルは風間塵ではなく亜夜だと直感する。技術的な問題ではなく、あえて卑小化したとしてもモチベーションの問題なのである。もっといえば、亜夜は音楽家が存在する意味そのものを疑っている。
 幼馴染として再会した亜夜とマサルは音楽的には分身だと言える。お互いがありえたかもしれない自己なのである。これに対して、風間塵は、恩寵であり災厄でもありうるとユウジ・フォン・ホフマンの推薦状にも書かれていた。
 「夜」と「勝利」と「風に舞う塵」、これに対して「明石」という珍しい名前は、源氏物語によるだろう。光源氏が遠流に処せられる地名でもあり、のちに姫君を生む女性の呼称でもある。
 音楽をめぐる明るい成功とアポロ的な祝福としてのマサルと、デモニッシュでラディカルな衝動としての亜夜、そのふたりをかき乱すトリックスターとしての塵、そうした天上のドラマを地上でみつめる明石という構造が、この映画はうまくとらえられていないので、スケールの小さな少年コンクールのようになってしまっている。そのために、鹿賀丈史の演じる指揮者のような、原作にはない「いじわるな大人」の存在が必要になってしまった。
 ただでさえ分厚い長編小説を映画化するのにあらたな人物を付け加えたのは、それ自体で破綻だろう。ピアニストたちが人生をささげた音楽の物語でなければならなかったのに、ありふれた少年小説になってしまった。
 松岡茉優が栄伝亜夜をどう演じるか楽しみだったが、この映画の栄伝亜夜は小説の栄伝亜夜ではないので、そこはいかんともしがたい。
 でも、希代の一流ピアニストがコンクールを再現した演奏は聞いていて楽しかった。
 結論として、映画より原作の方がいい(えぇっ?)。