『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ザ・ウエスト』と『続・荒野の用心棒』

 セルジオ・レオーネの『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ザ・ウエスト』のオリジナル版と、セルジオ・コルビッチの『 続・荒野の用心棒 (DJANGO)』デジタルリマスター版があつぎの映画館kikiでやってたので観た。
 下の、クエンティン・タランティーノのインタビュー記事がのってるフライヤーをもらった。一読オススメ。


 
 クラウディオ・カルディナーレの伝法ぶり、そして、チャールズ・ブロンソンの男くささがかっこいい。

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クラウディオ・カルディナーレ

 タランティーノの『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』で、レオナルド・デカプリオがイタリアで一儲けして帰ってくるシーンを思い出した。あのエピソードは、『荒野の用心棒(A Fistful of Dollars)』の時のクリント・イーストウッドをモデルにしてるのかもしれない。あのころのこういう名作を見ると、あらためてタランティーノの映画愛の深さがわかる。『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』に、何かアカデミー賞を獲らせて欲しかった。

 『荒野の用心棒』は、イタリア人監督(セルジオ・レオーネ)が、日本映画(『用心棒』)を、アメリカの西部劇に翻案した映画だった。しかも撮影現場はスペインだった。そんなに多国籍なのに、役者であれば、西部劇は演じられたってわけか。
 『荒野の用心棒』は、黒澤明の『用心棒』を無断でリメイクしたことで後に裁判沙汰になる。日本側が勝訴したが、裁判の過程で明らかになったカネの内幕を知った黒澤明東宝を去った。

 『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ウエスト』は、当時、ヨーロッパでは大ヒットした。特に、フランスでは2年間ロングランしたそうだ。ところがアメリカでは惨敗した。今では世界中の映画監督に称賛される名作になのに。この辺のうける、うけない、の不思議についてはよくわからないところ。
 いま山下達郎アメリカで大受けしているらしい。たぶんインターネットが、何かのバリヤーを打ち破ったのだ。でも、その逆に、インターネットが何かの幻想をかき消してしまうってこともあるんじゃないかと思う。

 源流に黒澤明がいるのも面白い。しかも、黒澤明の『用心棒』は、本人がダシール・ハメットを参照したことを明言している。国籍は関係なくて、世界のトップクリエーターたちが、ハードボイルドっていう表現に夢中になっていたってことなんだろう。

 『続・荒野の用心棒』は『荒野の用心棒』とはなんの関係もない。この時代の世界の遠さが懐かしい。日本とかいう異国の『用心棒』って映画をリメイクするのに、いちいち許可を取らなきゃいけない発想がセルジオ・レオーネにはなかったんだと思う。同じような感覚で、セルジオ・レオーネの『A Fistful of Dollars』って映画に日本で『荒野の用心棒』ってタイトルつけて売れちゃったから、セルジオ・コルビッチの『DJANGO』に『続・荒野の用心棒』ってタイトルつけて売っちゃえってことになったんだと思う。
 その遠さがよいスパイラルを生んだってことはあると思う。『攻殻機動隊』のハリウッド版で北野武だけ日本語だったのが、観客に受け入れられたとは思えないんだけど、『荒野の用心棒』の台詞は登場人物ごとの母国語でばらばらだったらしい。どうせ吹き替えすんだからさって。
 「DJANGO」のラストシーンは、さすがにリアリティーとの距離が開きすぎていると感じないではなかった。しかしそれを言い出したら、全編イタリア語の西部劇に違和感を感じない私の感覚はどうなってんだってことになる。 
 西部劇がそれほど強度のある構造を持っているってことだと思う。ウソでもなんでも骨格の強いか弱いかが虚実を分けているとも言えるのかもしれない。
 あらためて全員イタリア人で南北戦争時代のアメリカを描くってとんでもない世界。しかし、考えてみれば、スターウォーズだって黒澤明の『隠し砦の三悪人』っていうチャンバラをスペースファンタジーに翻案したのだし、『半沢直樹』は、歌舞伎を現在の企業社会に置き換えたものと言われている。
 先日の椿井文書もそうだったが、わたしたちは、面白くない現実より面白いウソに惹きつけられがちだ。面白くない現実は、面白いウソに上書きされがちだと心しておいた方がいいんだろう。
 蛇足ながら、先日の『椿井文書 日本最大級の偽文書』にさらりと書いてあった。法然上人の一枚起請文はまったくの偽文書なのだそうだ。ショック。