『椿井文書 日本最大級の偽文書』読みました

 馬部隆弘の書いた『椿井文書 日本最大級の偽文書』を読んだ。
 江戸時代後期の椿井政隆という人物が、広範囲にわたる偽文書、偽の絵図、偽の家系図、などを大量に増産して、今に至るまで歴史の研究家たちを翻弄し続けている。
 馬部隆弘はけっこう若い人なんだが、なぜこの人がこのカラクリに気がつけたかというと、というか、なぜこの若い人でなければ気がつけなかったかなんだが、実は、椿井文書の実物はまともな専門家ならば、一見して捏造くさいと思うモノなのだそうだ。なので、それが作られた江戸時代からすでに偽物だと気がつく人たちもけっこう存在し続けてきた。
 しかし、偽文書にはそれが作られる動機が存在するわけで、村のいさかいに部外者が口を挟むまでもないし。まさか、その偽文書がこんなに広範囲に、こんなに大量に、ひとりの人物によって作成されたとは知らないし。
 明治以降も、特に関西では存在が知られていた。ただ、偽文書なんだから、研究対象にならない。選り分けられる異物として知られていただけである。
 それが、戦争が終わると、戦前の歴史学なんてものは、皇国史観そのものが偽歴史みたいなものだから、ほとんどバッサリ切って捨てられた。ましてや椿井文書なんてものの存在は、記憶にも記録にも残らなかった。
 戦後の混乱期が去って、戦争と高度成長で地方のコミュニティがぐちゃぐちゃになった後に、これはそろそろ地方の歴史を掘り起こさないとヤバいって気分が、地方再生のはかない願いとともに起こってきたときに、椿井文書っていう、ありもしない城の由来とか、居もしない豪族の来歴とかを、かつて村の諍いのためにでっち上げたものとは知らず、現代の村おこしのために「発見」してしまうっていう、かなり滑稽な事態に立ち至った。
 地方公共団体の費用で、椿井政隆がでっち上げた絵図なんかが堂々たるモニュメントになっているケースもあり、広報誌に載ったりするのは珍しくないらしい。
 そうやって活字になっちゃうと、現物にあった、いかがわしい匂いが消えてしまう。新仮名遣いの弊害だろう。それと、著者は、立場上スルーしていた印象だが、中世の専門家はあまり古文書の現物に当たらない習慣だそうだ。近世と違って中世以前の文書は、当然ながら数少ない。なので、すでに活字に起こされたものを対象にする場合がおおい。そのため、古文書の鑑定と歴史の研究は分業してしまっていて、現代の学者も椿井文書にあっさり騙されているケースも多かったらしい。
 過去形にしておくのは、この著者が椿井文書について発表し始めてからようやく改まってきつつある現状だそうだからで、それでも、学問世界以外では、もう村おこしにしちゃったからなぁ、ということか、「正しいかどうかより、子供に歴史に興味を持ってもらう方が大事ですから」と、意味不明なことをいわれたこともあったそうだ。
 江戸時代でも、文書の偽造は厳罰に処せられた。「幕府が定めた「 公事方御定書」第六二条でも、謀 書・謀判は 引 廻しのうえ獄門と規定されて」いたそうで、椿井文書もそれをかいくぐるための工夫がされているわけで、ホンモノと見たい目で見ればホンモノに見える。それが詐欺ってもんなんだし。
 この本の中で挙げられている具体例では、大阪府に史跡指定されている「王仁の墓」が面白い。これはご自身で読んでいただきたい。
 朝鮮から日本に論語などを伝えたとされる王仁博士は、そもそも実在が疑わしいそうだが、枚方市にあるその墓というのは、もともと「おにの墓」と呼ばれた大きな石がそこにあったのを、それが「王仁」の墓なんじゃないか、という伝説も、またいつの頃からかあったそうだ。その伝説を幕府の命を受けて『五畿内志』を編纂した並河誠所という人が書き留めた。
 古墳時代の皇族の師匠の王仁の墓が、自然石ひとつなわけがない。しかし、幕府が編纂した書物にそれが書いてあるわけだから、その近辺で「うちは王仁の子孫です」って文書を持ってる人がいれば、その人は箔が付く、伝説の方は裏付けができるってわけで、誰も損はしない。
 時代が降ると、並河誠所は、そういう文書がそこにあったから、そういう記述をしたんだろうってことになる。
 そのうち誰かがその偽文書をもとに石碑を建てる。石碑が立つと、石碑をめぐる伝説もホントみたいに思えてくる。大阪府が「王仁の墓」を史跡に指定した昭和13年には、その石碑は「水戸黄門が建てた」ことになっていたそうだ。
 昭和13年といういかにもキナ臭い時代、朝鮮半島の支配にあたって、内鮮融和が図られていた頃だそうで、そういうお上のご都合主義で史跡になったにすぎなかった。
 ちなみに、今現在も史跡指定は解除されておらず
「平成一八年(二〇〇六)には、伝王仁墓の前に韓国の全羅南道から運ばれた資材によって、「百済門」なるものが建設された。そのような交流を踏まえて、平成二〇年に枚方市全羅南道の霊岩郡は友好都市の提携を結んだ。」
のだそうである。
 椿井政隆は、趣味と実益を兼ねて、この手の偽文書を作り続けていたらしい。ひとたび歴史が歪んでいったら、それを修正するのは、ほぼ不可能なのかもしれない。「歴史修正主義者」とかいう非難の言葉もあるらしいし。
 ともかく、今は椿井文書という、偽文書の体系が歴史学の研究対象になってきているらしい。
 考えてみれば、日本の歴史自体が、まともな学問の体をなしてきたのは、ようやく戦後のことなんだから、この程度の混乱はまだまだあるのだろう。

神社合祀に関する意見

神社合祀に関する意見

 南方熊楠の『神社合祀に関する意見』というのも読んだが、明治39年に原内閣が合祀令を出して、無理矢理に行政区と神社の数を合わせようとしたものだから、そのときに、かなりあやしげな人物が神主に居座った事例も多かったらしい。
 明治政府はありとあらゆるところで日本の伝統をズタズタにしている。明治政府のいう「日本の伝統」はまず疑ってかかるのが正しいようだ。まさか、公文書を改竄するのが「日本の伝統」なんてことはいわないでしょうね。冗談にもならない。