オペラシティアートギャラリーでジュリアン・オピーを観てきた。
展覧会で撮った写真を見ていて、この写真と
この絵が似て見えることに気が付いた。
っていうことは、19世紀のパリの女たちがみんなルノワールの女に見えたように、今のボストンを歩く人たちが、みんなジュリアン・オピーの人たちに見えている可能性がある。
写真のいちばん奥に見えているのは
この作品。昔、夜店で売ってた「型抜き」を思い出させる。
この≪Telephone≫は、あまりにもセクシーなので何枚も写真を撮ったが、右肩あたりの色っぽさがちゃんと撮れたという気がしない。
しかし、これがセクシーに見えるのは、いったんは奇妙なことである。この女性が「線」で描かれているのか、「面」なのか、それとも「立体」なのかがよくわからない。
ちなみに、この女性を横から見ると
こうなってしまうが、しかし、真正面から見るのがいちばんいいというわけでもない。
手前の5羽のカラスたちも、ミニマルにそぎおとされた表現の動きのリズムと、黒い立方体の空間配置がここちよい。
この展覧会は、作品の配置そのものがここちよい。
この≪walking in London≫なんて
私たちは今まさにこのように生きているのかもしれない。孤独が常態化しすぎて無感覚になっている。
渋谷のスクランブル交差点は、なぜか世界的な観光スポットになっているけれど、あそこで人が見ているものはこういうことなのかもしれない。その意味では、サントリー美術館でやっている「遊びの系譜」の邸内遊楽図とか洛中洛外図の群像表現にルーツをみるべきかもしれない。ジュリアン・オピーは4面の立方体に設えているけれど、これを展開して屏風に仕立てれば、現代版の邸内遊楽図になりうるのかも。
≪Towers1≫は、リチャード・エステスへのオマージュなのかなと思った。
≪Valley≫の鳥には、ゴッホの絶筆を思い出した。
ただ、この二つの作品は、アルミニウムに自動車用塗料が用いられている。ふだん町中で見かけて「いい色だな」と思うのは、車の色と服の色ぐらいで、都会を背景にすると自然の色は色あせて見える、か、受け手側の感性が反応しなくなっている。
前に、アンディ・ウォーホルがペイントしたBMWのクルマを見たことがある。
アンディ・ウォーホルは、絵はポップアートなのに、クルマは絵なんだ、とおかしかったんだが、このジュリアン・オピーはその逆をいっている。
今回、図録は買わなかったけれど、Tシャツは、いままで見てきた展覧会すべてのなかで、一番カッコいいと思った。