『殺人者の記憶法』

殺人者の記憶法 (新しい韓国の文学)

殺人者の記憶法 (新しい韓国の文学)

 キム・ヨンハの『殺人者の記憶法』を読んだ。これは同じタイトルで映画にもなっている。
 田舎で余生を生きている元連続殺人犯が、娘を標的にする殺人鬼と対決しようとする。しかし、老いた彼の脳ではアルツハイマーが進行しつつある。はたして記憶の混濁と戦いながら彼は娘を守り切ることができるのかっていう、まず着想が面白く、そして、それを意外な着地点にまでぐいぐい引っ張っていく作家の力量も見事だった。
 日本語で読んでいるせいかもしれないが、読みながら中村文則を思い出していた。というのは、中村文則もそうだけれど、韓国語にせよ、日本語にせよ、いま、英語以外の各国語で書くことの意味は何なのかという疑問。
 このキム・ヨンハも中村文則も英訳すればすぐに英語のマーケットに流通していくと思える。アルツハイマーの殺人鬼も天才的スリも、韓国、日本、の文化的コンテキストに制約されない。これらの小説は、はじめから英語で書かれてもよかったはずなのだ。むしろ、英訳されることが前提で書かれているような感さえある。中村文則は、『掏摸』で、日本人として初めて、アメリカの文学賞「デイビッド・グディス賞」を受賞したが、あれは翻訳で失われるものがほとんどない小説だと思うのだ。
 このキム・ヨンハの小説もそうで、そもそも主人公が元・連続殺人犯であることに社会的要請、というのはおかしいのなら、必然性はない。主人公が元・連続殺人犯であることが韓国の社会状況を浮かび上がらせるといったことには、作者はそもそも興味がない。元・連続殺人犯は、シチュエーションにすぎない。中村文則の「スリ」もそうで、そんな天才スリ師なんてものがホントに存在するのかなんて疑問は野暮ってものである。
 別にケチをつけているわけではない。疑問は、国語で書くことの意味は何かなのである。日本語に限らず、翻訳で失われるものがあるなら、韓国語や日本語と言った国語が豊かであるということなのである。しかし、翻訳で失われるものがないなら、はたして国語とは何なのか。
 たぶん、村上春樹以降のことだと思うが、翻訳的な文体というより、おそらくは、書き言葉の原体験そのものが翻訳なのだろうと思う。どこか近代の日本文学の言語体験を捨象してしまっているような読み味がする。
 たとえば、村上春樹が神戸の出身であることが信じ難いほど、土着の言葉のにおいが感じられない。
 村上春樹自身は、小説家であると同じくらいの重さで、翻訳家でもある。どこかで「英語の小説は途中で分からなくてもガシガシ読んでいく」と書いていたように思う。しかし、ふつうの人は、分からなければ読んでいけない。
 そんなふうに、日本語と英語が地続きになっているかの村上春樹の文章を見ていると、一見、彼の作品が日本の社会とリンクしていないかのように見える。しかし、ノーベル文学賞候補云々を言われるようになってからの、書けなさというかスランプというかは、実は、彼の源泉が、あの時代、あの村上春樹の時代にあったと納得させてくれる。
 『ノルウェーの森』は、みずみずしい死の匂いに満ちている。村上春樹デンマーク語の翻訳家を追ったドキュメンタリー映画『ドリーミング村上春樹』で、翻訳家のメッテ・ホルムは「完璧な文章などといったものは存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね 」という文の翻訳に頭を悩ます。
 完璧な絶望を死ぬことは誰にもかなわないとすれば、誰もがその絶望のあとを生きなければならない。絶望の後をどう生きるか、または、もっと完璧に近い絶望をどう死ぬかを見つけられないのは、村上春樹の問題ではなく、時代が共有する問題なのだろうと思う。
 あの映画を観た時も思ったが、村上春樹がいま世界中で読まれているのは、彼の文体が翻訳的であるからだと思う。世界中の人々がそれぞれの母国語で読み書き話している。しかし、インターネットでこれだけ世界が狭く近くいる時代、それらの多くの言語が翻訳語化してきているはずだと思う。夏目漱石川端康成の日本語のフレグランスは翻訳で失われるが、村上春樹の翻訳調のバタ臭さは翻訳で失われない、どころか、翻訳調のひびきに母国語と同じようななつかしさを感じる人たちが存在しうる時代なんだろうと思う。