そもそもオリンピックが不要不急

 新型コロナウィルスの大流行が、はしなくも明らかにしたことは、「不要不急」の重要さ。「不要不急」こそ経済を回している。ウィルスにかぎらず、危機に見舞われたとき、一般家庭でまず最初にきりつめられるものが「不要不急」であるのはあたりまえで、政治家や官僚に指示されるまでもない。
 で、「不要不急」を切り詰めた結果どうなったかというと、リーマン以来の大不況なわけ。広く浅く消費を冷え込ませることがいかにおそろしいかを、コロナウィルスが証明した。
 財政健全化が必要であることに異論はないが、消費税率をあげても、税収が伸びなければ意味がない。逆に、経済のパイが大きくなれば、税率はそのままでも税収は増える。財政健全化を名目に、やみくもに消費税率をあげるのは、経済官僚の怠慢と無責任にすぎないだろう。
 経済のパイを大きくするためには、人口を増やすことがまず必要で、そのために、ひとつは、少子化対策。もうひとつは、外国人に門戸を開くこと。これはいいかえれば、女性差別と人種差別をなくす努力をすること。
 そして、人口対策と同時に必要なのは、消費意欲を高めることで、必要な出費は増えも減りもしないのだから、「不要不急」な出費をいかに増やすかに知恵を絞らなければならない。実は、オリンピックもそのひとつなのであって、なぜ見たいのか知らないが、三段跳びの予選なんかに大枚を払うひとがいてもそれはそれでよい。しかし、今回のコロナ騒ぎでぶっとんだ様々なイベント、演劇、映画、展覧会、なども、オリンピックと同様かそれ以上の価値があったことに気づくべきである。言い換えれば、多様な価値観の自由な表現をサポートする政治体制が欠かせない。
 1964年のオリンピック、1970年の万博が、それに続く経済成長の象徴となりえたのは、オリンピックや万国博覧会の理念が、まだ発展途上だった日本の、国際社会に向けて国を開いていく、具体的な社会の動きと合致していたからだといえる。
 しかし、今の日本の価値観をふりかえってみれば、あいちトリエンナーレの表現の不自由展をめぐるあれこれをみても、とても多様な価値観が認められているとは言えない。
 女性差別はというと、世界経済フォーラムの男女平等ランキングで日本は年々順位を下げ続け、今や、中国やイスラム諸国より下である。
 そして、人種差別はというと、衝撃的なことに、ついに、日本の入管の長期収用問題がアムネスティーに取り上げられることになった。
 アムネスティの活動というのは、世界の国々で不当に拘束されている人々を解放するように、メンバーがその国の政府にあてて抗議のハガキを送るっていう、私の理解ではそういう活動である。日本政府がその対象に選ばれている。先進国の中でこんな対象に選ばれるなんてことは、前代未聞の恥ずべき事とおもうべきだろう。
 しかも、この日本の入管の問題は10年も前からずっと言われ続けている。自民党民主党は関係ない。国際社会の一員としてかなり恥ずかしいということは自覚しておいた方がよい。そのうえ、直近の長期収用は、オリンピック対策だといわれているのだから本末転倒もはなはだしい。へたすれば、オリンピックのボイコットが起こっても不思議のない問題だと思う。

prtimes.jp