官僚支配ということ

knockeye2013-10-04

 複数の試算が、消費税を8%どころか16%あげたところで、財政健全化に役立たないと結論しているにもかかわらず、結局、消費税率の引き上げが決定されてしまう、その意味は、租税は社会の姿を写す鏡なのだとすれば、明治以来、この国を動かしている原理が、官僚主義という仕組みであることの証明が、そこにあると思うべきだろう。
 古賀茂明が、「租特(租税特別措置)」を例にあげて、既得権益の構造をわかりやすく説明している。後でリンクを張っておくのでぜひ読んでいただきたいけれど、これを読んでわかるこの国の特徴は、他の国では、‘税を下げる’と言えば、‘法’で下げるのに対して、わたしたちの国では、‘特別措置’でさげる。つまり、日本の法律は、あまりにも多くのケースで、役人の権限の裏付けとして存在しているために、事実上、役人の意向が法に優先している。これがつまりわたしたちの国が官僚に支配されている、その具体的な仕組みなのだ。
 現在のような財政破綻を招いたその仕組みそのものの論理で、ただ税率をあげてみたところで、財政が健全化されないのはむしろ当然だろう。それではなぜ、財政を健全化しないばかりか、景気にブレーキをかける消費税を、役人が増税したがるのかといえば、そこにもまた、‘非課税品目’という役人の権限の卵が無数に産み付けられているからにすぎない。
 財政の健全化のためには、消費税増税の是非などという末端の議論ではなく、税の取り方と使い方をどのように変えていくか、という構造的な議論にこそ意味があるはずだし、そういう意味のある議論をすることこそが政治の存在意義であるはずだが、そうした議論がマスコミによって喚起されず、政治の現場で生産的な運動になっていかないことに危機感をおぼえる。
 たとえば、これもとうの昔に紹介したけれど、野口悠紀雄大前研一が、高度経済成長を終えたいまのような社会には、フローよりもストックに課税する資産税を中心にした税制に変わっていくべきだと提言している。これは提言として、すくなくとも、消費税増税よりはるかに一考の価値があるものだが、こういう提言が、みごとなまでに黙殺されるか、あるいは茶化される。
 その理由はおそらく、そうした根本的な改革で、権限を奪われる、官僚が妨害することと、その官僚の広報にすぎないマスコミが、これをまともにとりあげないためだろう。
 昨日か一昨日か、出勤直後のひととき食堂でテレビを観ていたら、小泉純一郎脱原発の発言について、「今でしょ」で有名になった人が解説していた。あのひと、予備校の先生だとは知っていたけれど、国語の先生だったのか、つまり、そのテレビの意図としては、「脱原発」発言の内容についてはふれず、表現についてだけとりあげようとのことらしかった。ここに3つ繰り返しがありますね、とか、ここで常体が敬体にかわりましたね、とか。こういうマスコミの態度は、すでにおなじみのこととはいえ、姑息にすぎて情けなかった。
 郵政民営化で、財政投融資という官僚の権益を民間に解放することで官僚主義を打破しようとした小泉純一郎が、これもまた既得権益の温床となっている原発を廃止しようとするのはむしろ当然だが、新自由主義などというプロパガンダ構造改革を非難してきたマスコミは、この脱原発発言を解説する文脈をもてないのだ。
 もともと日本に原発を導入した中曽根康弘も、いまは脱原発を主張していると聞いている。40年も昔の決定を今翻したからと言って非難されることはない。ましてや、わたしたちはすでに福島第一原発の事故を目の当たりにした。
 50年も前に決定したダムの建設を今でも営々と続けている官僚の意識の方が異常なのだが、まるで、その方が正常なように考える、官僚の飼い犬みたいな連中も少なからずいるらしい。しかし、これだけは言っておきたい。このさき彼らはあなたたちにエサをくれない。そもそも彼らがあなたたちを喰っていたのだけれど、気が付きませんでしたか?。